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「物事が落ち着いたら」という日は、一生来ない

何事にも「完璧」を目指して、とことん準備をしてから臨む日本人と、60%くらいできたところでとにかく実践の場を増やす周りの東南アジアやアフリカ出身の人々。私たちは、とくに国際社会において、英語ができないからという理由で、とにかくとてつもない機会を逃し続けてきたと思う。

この状況は、どうにもコロナ感染対策の現場と似たところがあるなぁと思っていて、よく日本人の友人たちを誘うと言われるのが「物事が落ち着いたら是非会おう」という言葉。

それ、いつやねん。

と、いつも自分のスケジュールすら勝手に決まっている(笑)ベトナムでの生活に慣れきった私は、そうやって素直に、直接返事をしそうになるけれど、「あぁ、これが日本の社会のしきたりなのだ」と自分を納得させて、「そうだねー」と言っておく。

これだから、きっと私は日本人の友人は少ないけれど(笑)、まぁ、友人の出身に拘ることも無いなと思う。

「物事が落ち着いたら」っていうのは、このコロナ禍における状況の変化を見ながらだと思うけれど、そう言っている間は、その瞬間というものは一生来ないんだと思う。

会いたいと思ったら、時間つくって会うし、会うのが目的だから、場所問わないし、なんなら歩きながら運動しながらの会話でも良いし(walk talkと勝手に命名しながら)。でも、思うに、日本人が考える「久しぶりに会う」シチュエーションは、雰囲気が良くて、味も良くて、コスパ良くて、何かをしながら(とりわけ食べ&飲みながら)という完璧なシチュエーションであって、なんだか準備を伴う、みたいな。だから、変な期待値上げて、ハードル高くしてるんじゃないか?それが「物事が落ち着いたら」っていう言葉で覆われているのでは?

語学の話にも通じるところがあって、実践の場をとにかく増やすしか上達の方法は無いのに、とにかく自分のハードル上げて、話せないと決めて、機会を逃して、結局話せないまま。で、「マミは、英語話せて良いよね」といって終わる。

「物事が落ち着いたら」「英語が話せたら」という日は、その日を待っている限り一生来ない。会いたい人がいたら、会いにいくしかない。実践の場を増やすしかない。行きたい場所があったら、行くしかない。こうしている間にも、次にどんな事が起こるかわからない。落ち着く以前に、もう一生会えないことになるかもしれない。

ボツワナ出身の友人と話していて、彼女はコロナ禍で1ヶ月の間に複数名の家族と親戚を亡くしていて、それでも勉学と仕事に励んでいて、私自身は、まず、とにかく彼女に会えて良かったなと思うし、翻って自分自身と社会と照らし合わせて考えてみたときに、"seize the day with all your might"という言葉を思い出す。これは決して、楽観的に生きろと言っているわけじゃない。物事を直視して、現実的に考えた果てに、人生を創り出すのは毎日であって、目の前のことに集中する。だから未来に過度な期待はしないし、未来のどこかの時点の「落ち着いた瞬間」を待つわけでもなく、ただ、できることを愚直に行っていくのみ。

Live as if you were to die tomorrow.
Learn as if you were to live forever.


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