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『君たちはしかし再び来い』(山下澄人)/フラッシュメモリー/2022/08/14

だいぶ前から『君たちはしかし再び来い』(山下澄人)が机にのっている。山下澄人の小説はほとんど読んだことがない。『コルバトントリ』を借りて読んだきりだ。飴屋法水の『コルバトントリ』の舞台で山下澄人を俳優として知った。知った言っても見た…というだけで…ちょっといかついな…でも俳優として魅力的だな…飴屋法水と深いところで通底しているな…とか思った。俳優で小説家。山下はどんな人にも殺気を発揮できる俳優のように見えた。そして演技を考えて巧くいかなかったら、自分が生きてきたことを表現すればいい…。そんな風にも見えた。でも。たぶん山下澄人は、演劇とか、言葉とか、小説のあり方とかを…考え続けている人だと思う。考えながら行動している…人だ。きっと…。
だから机の上の『君たちはしかし再び来い』に手が伸びない。手ごわくてページが開けられない。好きなんだけど、友だちになれないだろうと、最初から諦めて話しかけないタイプ…だから本にもそうなってしまう。舞台で見た役者の肉体…その肉体をもった作家の作品を…先入観なしに読みたい…なので躊躇しているところもある。もう3ヶ月。早く読めや。本はそう言っている。

さて、文章が書けないことに気づいてから、もう1年半くらいたった。なのに踠いている、書くことにそして読むことに。駄目だと分かったらすぐ放棄するのが、もしかしたら自分のもっとも有効な得意技だったかもしれない。…昔、写真家・深瀬昌久に「おまえには、俺を越える写真家になれないよ」と云われた。深瀬は、泥酔しているのに、ことこまかく僕が駄目な理由を教えてくれた。ごもっとも…たしかにそうだ——納得して翌日に写真家になるのを諦めた。そして深瀬昌久の元を離れた。あっさりと、しかしながら心から感謝しながら。今も思う。辞めてて良かった。同じ様に、文字は、駄目なんだから棄てればいいじゃないか…と思う。…なんか未練がましくぐずぐずしている。歳のせいか…それもある。また言い訳を云えば…書く力は読む力は関連があって…いや逆なのだ本を読む力には書く力が必要なのだ。最低限の。なぜなら本は作家によって書かれているから。観客として読むなら、見るなら、そんな力はいらない。ただ愉しんで読めばいいんだ。しかし自分は、雑誌を作るという、作家と観客の間にあってずっと生きてきた。欲望のままに本を読むということがもう習慣的にできなくなっている。演劇を観るのもそうだ。

小説家の書いた入門書は、その小説家の本を読書するための優れた指南書になる(場合が多い…)。どこかに、こう読んで欲しいという作家の希望のようなものが透けて見えるからだ。それは、もっと言えば深い読み方の突端になる。作家の云うことは…鵜呑みしてはいけない…役者の俳優論/芸談も同じだ。…自分はこういう風にやっている/やりたいという事が書いてある。千両役者は観てもらい方もコントロールするものだ。その戦略を垣間ぬって本音を読み解く。これが入門書や自作解説を読む面白さだ。もう一つ読み続けているのは、作家が[死]や[老]を体感した後に書いた小説だ。入門書と最終小説…それが最近の読書だ。文学界8月号は『入門書の愉しみ』だ。即購入。ぱらぱらめくっていくと思想入門書のあとに、小説家が薦める小説入門書があげていた。カットインできない。入門書はその対象の作品を読んでいなければ、内容が響いてこない。対象の作品を読み解くための入門書なのだが…そんなに巧いことにはならない。入門書にとりあげられている作品を読み込んでいないと…入門書の文章は身体に入ってこない。カフカとか…鏡花とか…ないかな…ない。

演劇の入門書のコーナー(?)を山下澄人が書いていた。ピーター・ブルックの『秘密は何もない』…知らない本だ。図書館に自転車で借りに走った。(新刊は販売していないので…)読みはじめて、ちょっとした衝撃だった。舞台の仕事していた時期もあったので、当然の頃ながらピーター・ブルックの『何もない空間』は読んだ。読む機会や…読まなくてはいけない機会もあって、その度ごとに買った本は、本棚に3冊になっている。ということはつかめていないということだ。タイトルの『何もない空間』という言葉と、ブルックのすっきりした舞台構成からなんとなく大丈夫把握したと思っていた。理解は…ぜんぜんしていなかった…。ブルックの『秘密は何もない』は、吃驚するくらい分かりやすく、しかもブルックがやっていることの深さと機微を分からせてくれる。ブルックって、こういうことをやりたかったのか…としばし呆然とした。『秘密は何もない』は、『何もない空間』の入門書にもなっている。書き言葉(何もない空間)でなくやや話言葉(秘密は何もない)で書かれているからだろうか。つまり身体を伴った、現在時制を取り込んだ文体だからだろうか…山下澄人がこの本を演劇の入門書として上げている。演劇人として作家として…把握する力が確かだ。「秘密はなにもない」を読んで…山下澄人が読める気がした。肉体から入れなくても、『君たちはしかし再び来い』に少し入れるインテリポイントがある気がした。正直、ほんの少しだ。読んだ。一気に。これが何かと語ることは難しい。凄くて…。今の小説とか書くと言うことに関する、自分の力がなさすぎて…。自分メモを残しておこう。またどこかで深く読めるチャンスも来るだろう。そしたらまた深く入れるかもしれない。

『君たちはしかし再び来い』
ここから読んでいけるのかもというカットインポイント
[死]とか[老]とかが、その感覚が身体に、挿し込む時がある。自分のいない地球というものがありありと感じられる時がある。なんとなくじゃなくて、耳の後ろがヒヤッとしたり、高いところで身体がぞくっとしたりするあの感じの何倍かのヒヤリ。この感覚は理由がなく向こうから来る…まったく理由がないわけじゃないが加齢や病気…とか。でも、来るのは向こうから勝手にくる。まっちゃぁくれない。
プルーストやフローベールはその時のことを書いている。日野啓三も書いている。その後、書くものは少し変わる、大きく変わる。もちろん作家それぞれだ。わりとゆるっと受けとめる人と、がりっと集大成する人と…さらにアナーキーになる人と…。
『君たちはしかし再び来い』の山下澄人がそれを体験しているかは分からないが…きっと似たものをもっている…もしかしたら若いときから…それによって文学の純度を上げている。
元々、山下澄人は身体を装置のように記述しながら自分の内面と身体との齟齬を体験の中で書いているというユニークな…時代に必要な…書き方をしている。
小説の中にでてくる一人称は、限りなく山下澄人を感じさせるように書いてはあるが、小説の一人称である。かつて自分という人間の内面が体験した一人称感覚/それと微妙に齟齬を起こす身体とのことを書いている。(そう感じる)
『君たちはしかし再び来い』には、腹に障害を起こして病院に入って手術してということを繰り返す小説の一人称/山下澄人が出てくる。災禍を受けている身体とそれを受けとめながら、今までとは異なる感覚…異和感を体験して書いていくという行為/現在時の…を書くという小説になっている。身体の中に居る〈私〉は、強制的に変質させられた身体や身体を通じて伝わってくる感覚を——受けとめる。考える。扱う。戸惑う。身体の変異に苛立ったりもする。
一方、戦争も災害も環境を大きく破壊し、そこに繋がっている身体に大きなプレッシャーを与える。身体の中にある、〈私〉も今までと同じということはあり得ない——拉げる——。山下澄人は、自分の外にある社会と自分の身体や内面が齟齬を起すことも書いている。ある程度受け入れながら、いなしながら、それでも疑問のような感覚が連なって発生する、その流れも書いていく。
内面と外界との齟齬は、今の小説やエンタメの一つのテーマであるが、感じるのは…類型的だな。ということだ。個が世界と不都合を起している、今、個は孤独性を色濃くしている。だから犯罪や殺人を犯す人の内面について報道が不能になっているのだ。知ろうともしない。殺人を犯しても不可解と括られて常態の社会から別の物にされる。常態の社会から外されているから起したともいえるのに…。山下澄人は、外界や身体と齟齬を起す内面/個を小説に描いている。そこを書くとき、そこを小説にするとき、類型ではない文体が必要となる。
小説家は、今起きている齟齬を描くときに文体ごと変異する必要がある。(全員じゃない。そのことを…そのこととは変異する外界/身体と、自分との関係を真摯に向かい合おうとする人に必要…ということだ)山下澄人はそれをしている。文体を精査しながら、そこにある外と内の関係を見て/記述していこうとする。おそらく山下澄人の身体に起きたことを受けとめるときの山下澄人の感情は激しいだろう。…しかしそれは、もう一人の自分が見ているような記述になって、その激しさやパッションは文体の中に鎮まれる。仮に生起するんだとしたら、感情は読者の方に生起する。震災や戦争後の文学というのは、たぶん孤独な個/類型にならない体験と感覚をした個と、崩壊する秩序としての外界との[齟齬]が一つのテーマになるだろう。飴屋法水が山下澄人の作品をすべてが震災後文学だと云うのはそういうことだと思う。

山下澄人の個/内面と齟齬を起している外界は、それが社会であっても、人の集まりでも、必ず身体を介しての接触であって、個と対面しているのは、今に存在している山下澄人の身体である。個が身体の中心であることを失って…中心を喪失している状態…それは山下澄人に限らず起きていることで…身体や環境を通じての共有感を失いつつある現在___。それが文学が向き合っている現在だ。山下澄人は真摯にそこに向かう文体をもって書いている。


PS____________
マリウポリの製鉄所で闘っていたアゾフ大隊の投降がはじまり、バスに乗り込む姿が映し出された。犬を連れた女性戦士…若い青年戦士…表情は清楚で…疲弊しきっていないように見えた。かといって好戦的な顔もしていない。一人一人の顔を…窺った。精神も…身体もぼろぼろなんだろうが、憎しみも疲れも見せない、フラットな顔で座席に坐っていた。一人一人がそれぞれの顔をもっていて…どういう経過で軍に参加し闘い続けているのか…。ひとりずつの個と、ウクライナという国家/国土。その向こう側にいるロシア人兵士、プーチン、そしてロシア——。戦勝記念日のロシアの兵士達の行進。そこにも顔はある。同じ顔をしている/させられている。その個と、その個の内面を想像することは難しい。国家をプーチンをまったく疑うことはないのか。永遠に。
個の帰属している家族なり、社会なり、国家なりが災害や戦争にあって、破壊されたとき、その関係もまたそれに応じて歪んだり壊れたりもする。たとえばウクライナの人/個を想像するとき、ウクライナの小説、あるいはウクライナのことを書いたもの…あるいはウクライナのノーベル賞作家…の作品を通じて、辛うじて想像したり、仮説を思ったりすることはできた。できた——それが幻想であろうと辛うじてできた。今は…。個と繋がるイメージを摸索しても…どうしたらいいのかと途方にくれる。
ウクライナの個は、ロシアの個は、きっと大きな意味での自分の身体/社会・国家というものとの軋轢によって嘖まれるに違いない。文学も大きく変わる。個の軋む音を描く文学が生まれてくる。きっと。個がこの戦争や災害によって傷ついたとき…(それは歴史の中でも未曾有のことだ)…しかもそれが情報としてはネットで全世界が見ているというときに…個は…個の軋みは…類型というものから遥かに遠く…数限りないばらばらの個として存在していくのではないかという気もする。そのとき、人と人のコミュニケーションは、どうなるのか。

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