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歌舞伎は大丈夫か?もちろん安泰、大丈夫。

ずっと異和感をもって心に残っている言葉がある。松本白鸚が中村吉右衛門の死去に際して出したコメントである。
 別れは何時の刻も悲しいものです。今、とても悲しいです。たった一人の弟ですから。
弟ですから——と、何で断らないといけないのか。弟ですから…に籠っている確執は深く、死をもってすら寛解しない。乾いたそして深い闇がそこにある。弟が死んで悲しかったらこんな客観的な、一歩外して語るような言い方はしない。幸四郎も菊之助も、インタビューの中で慟哭のような涙を流していた。
 さてその白鸚、11月、團十郎襲名の特別パンフレットに「歌舞伎の世界では先輩から芸を学びますので、習った先輩を大事にしてほしい」「後輩、若手、一門の者達には、おおらかな気持ちで接してほしい」と書いている。しかしこの程度のことで、改心しないまでも行動を改めるのなら、すでに海老蔵は変わっているはず。團十郎襲名に関しての苦言は…一応しておくということでしかない。私たちは認めていないからという保身でしかない。
 昔々の話だけれど、『戦場のメリークリスマス』の出版、『Avec Piano』カセットブック出版のディレクションを手がけた時、インディで『夜想』しかやってこなかったボクは、メジャーのとてつもなく過酷な交渉や製作に、寺山修司の逝去が重なり、肝臓から白血球が消去するという原因不明の病になり緊急隔離入院をした…出てきて仕事に復帰して、「大変だったね」と言われるのかと思いきや、「大事な時に倒れるなと」教授に𠮟咤された。あ、プロの現場ってこういうものか…と、はじめて大人の仕事ってなにかと…たぶん入り口を覗いただけなんだけれども…以来、病は仕事が終わってから出す事にして、それは今まで続いている。だからあの頃は、12月31日の仕事終りに熱を出して正月まで寝込むという毎年を繰り返していた。そういう現場では、いなくなったら負け。白鸚さんもともと言ってもきかなかった海老蔵/團十郎に、言葉で本気の変化を求めるなら、体調悪くても最後までいて、口上でも同じ言葉を繰り返さないと。そして團十郎さん分かりましたねとぐらい言わないと。差し違えるつもりでないと効果はないと、傍から見ていると思う。声が小さいと注意をした片岡仁左衛門も不倫報道かなんかで、これもぐずぐずになって、退場しているのに等しい。團十郎のほくそ笑む姿が目に浮かぶ。これでも松竹、團十郎のシナリオの裡ではないかと想像する。
 10月の歌舞伎座は30%ほどの客の入りだった。(ボクの見た日。でも他の人に聞くとそんなもんだと…)劇場に、今、人は集まらない。同じ月の唐組も満員ではなく、燐光群も良い芝居に係わらず30%入ってたか…もっと少ないか。團十郎襲名は満員で観客に支持されている。一日で売り切れとボクが言ったら、席は余っている、こんなことははじめて、由々しきこと支持されていないという人がいた。ネットで調べたら、一日三席ぐらいが、余っているだけのことだった。伝えると、ソールドアウトじゃないから、客は團十郎に批判的なんだと主張していた。いやいやそれは三席分の批判でしょう。この時期に、この入りは、観客の支持があるという証。いつもは辛口の評論家も團十郎、褒め褒めの記事。見てない人はそれを読んで、そうなんだと思う。松竹も望んで、歌舞伎俳優も止めずスルーして、観客が双手をあげ、評論家が総褒めをする。團十郎に竿をさすものはない。正確に言えば團十郎の演じる十八番がを通してしまったのだから、これがこれからの歌舞伎の演技になるのだ。十年もしたら、コロナの時期にも係わらず劇場を満員にして万雷の拍手を浴び、評論家も絶賛したと記録されるのだ。舞台を政治と力の地政学でみたらそういうことになる。真面目な話、歌舞伎が従来の形を捨ててしまうかどうかの戦争状態じゃないの?とボクは思っている。白鸚さんも80歳、仁左衛門さんもそれほどの元気があるかどうか…吉右衛門さんはいない。自分の『勧進帳』がこれからのスタンダートと、しかけたのは團十郎。実際、それを誰も止めてないし、万雷の拍手で認めたんだから(それが心からかどうかはどうでもいいことで)、そこに理のようなものはもう働いていない。プーチンに対して話し合いをしましょうとか、戦争犯罪をやめましょうとか、人道的な最低限のルールを守りましょうと言っても、止まらないのと一緒で(話を聞くくらいならそもそも戦争はしていない)…これまでもそうやって海老蔵のやり方を通してきて、そのままに團十郎として受け入れたのだから、侵略のための武器を援助したのと一緒。團十郎襲名は、小競り合いではなく、第三次世界大戦クラスのプーチン(團十郎)とウクライナ(歌舞伎)の戦い。圧倒的にロシアがプーチンが團十郎なんである。ゼレンスキーのいない伝統歌舞伎は押されまくっているのである。誰も身体を張らない以上、團十郎はこのまま歌舞伎を我が物にする。
 この聞かない團十郎を暴走させてきたのは、実は、父親の團十郎だと言える。『團十郎の歌舞伎案内』(十二代目市川團十郎)を読むと、團十郎演技は、それぞれの時代の團十郎が作り/変えてきたものだし…TVで中継されたパリ・オペラ座の『勧進帳』引っ込みを上手にしようという海老蔵が父親と話しているシーンがでてきて…てっきりこれはTV映像を通じて苦言を呈しているのかと思ったら、著作物では、認めている。自分はそうじゃないものをやっているが、どんどん新しくしていくのもありだと言っている。他の海老蔵の問題視された舞台演出に関しても、全然否定せず、当代が新しい事をして、歌舞伎は存在していく…というようなことを暗に言っている。そうか先代・團十郎さんのお墨付きか…。じゃあどうにもならないな…。そんなこんなの感想を、歌舞伎に最も詳しい小説家さんに聞いてみたら、見てないし…ね。見たくないし。「えー、そんなこと言わないでなんか教えてくださいよ、先代と違いとか、他の名人と言われる人との違いとか…」とおねだりすると、「自分の見たように判断すればいいじゃない。演劇として見れば。」と。ここから先は、現代演劇として見た團十郎の『勧進帳』の素人感想。通常の演劇なら…とくに今リアルのあり方を考えている非商業演劇の舞台の感覚で云わせてもらえば、衣装を調える時に、あんなにゆっくりと水を飲んで(4、5回あったかな)芝居の流れと熱をぶつぶつに切って、なおかつ自分の間で演技して、絡みを作らない/しない演技というものは、見たことがないし新しいなと。気になってYouTubeで過去の勧進帳を幾つか見たら、弁慶、富樫、義経、三者それぞれのやり方で、演技をして、絡みを作っていく。三者のトライアングルの中で舞台は熱を挙げていく。あがり過ぎると芝居が壊れるからまたしずめる。そのうねりのようなやり取りが舞台を蔽っている。が、團十郎は、自分の間で、自分の芝居をしている。相手が絡もうと落ちていこうとお構いなし。ボクが、見ていたのは二階西桟敷だったが、幸四郎の声がきちっと内容までとれたのに、團十郎は、何言ってるかまったく聞き取れない。声というものが発せられて、なんとなくとどいてはいるのだが…。台詞の最後だけを泣きあげる…いやなんだか分からない唸り声で調子を揚げると満員の観客は大喝采…。これで良いんだ…いいんだろうね、喜んでいるんだから。
 日本の演劇史を省みると、歌舞伎に対して川上音二郎がカウンターして新派を、新派に築地小劇場が突っかかっていって新劇を作る。新劇にぶつかっていったのは、寺山修司、唐十郎などのアングラ演劇、そこに野田秀樹たちの小劇場運動がアンチする。カウンターをかけたのは個人は、ほぼほぼ演劇の素人、前の演劇の影響を受けたり教育を受けたりしていない人たち。團十郎は素人ではないけれど、かなり歌舞伎のこれまでにはとらわれていないたった独りの歌舞伎人であって、その個が強烈に歌舞伎にカウンターをかけているのである。何かが起きる。それが日本の倣い。半独立で新歌舞伎を起すと良いかもしれない。自分のことを云えば、その当世團十郎歌舞伎についていくかというと、それはまた別の問題で自分の体力が持たないような気もする…歌舞伎には心中したいような嘆美もあって…團十郎襲名興行でもっとも心が動いたのは、襲名披露興業幕開けの『祝成田櫓賑』(いわうなりたこびきのにぎわい)の中のひとりの役者。もうたらたらとオーラもなく進んでいく芝居の、これも料金のうちと諦めて眺めているうちに、一人異彩を放つ役者がいて(自分は筋書きを読まない/見ないで芝居を見る習慣なので)誰?と訝しんでいると…とにかく一人芝居オーラがでている。坐っているだけなのに…。役柄は芝居茶屋女房・お栄。不思議な笑いの表情をして坐っている…思い出したのは八橋の出の笑顔。台詞がはじまると、少し呂律が回らず、お歳なのかと思ったが、顔をみるとそうでもなく…芝居の場を廻して周りを鼓舞していた。そして最後に立ち上がって前の方に出てきた…なんと介添えがついて、身体が不自由そうだった。でも、役者として何ともいえない魅力のある演技をしていた。あとで、筋書きを見ると、その役者は中村福助。病で半身不随となってしばらく舞台から遠ざかっていたが、復帰していたのだ。
 中村福助は、橋之助とともに若手のホープとして注目されている頃に、ボクは歌舞伎を見はじめた。南座まで追っかけ見に云ったことがある。芝翫、福助、橋之助の『真景累ヶ淵』1989年09月。いや福助じゃなくて児太郎時代だ。スーパー歌舞伎で、宙乗りで先代の猿之助さんと二人で飛んだのも…笑也、笑三郎、春猿…たくさんの女形ホープさんをおいて良い役をもらっていた。そして「いつまでそんなことをしているの」と、歌右衛門さんに引き戻され、歌右衛門修業に励み…ところが、歌右衛門が道成寺を伝授しているところが、テレビのドキュメンタリーで放映されたが…かなり辛いものであった。福助がまずいものをお見せしましてと客席で演出している歌右衛門のところに駆け寄ると「ほんとにまずいわねぇと…。」歌右衛門さんの𠮟咤はちょっと役者心を折るような強さがあって、この指導の延長に歌右衛門襲名があるのかと思うと、他人のことながら暗澹たる気分になった。
女形は時代時代に作られるもので、古い人にはあんな今風のと言われるくらいがちょうどで、福助の道成寺でいいじゃないかと思ったのだが…いろいろな時が流れ、福助は歌右衛門襲名が決まった後に、自らそれを取り下げることになった。そのいきさつは知らないが、もし歌右衛門を襲名していたら、團十郎襲名の助六で、揚巻だったんpではないのか…。歌右衛門にならず、病気を発症して、半身不随になって…その歌右衛門にならなかった/なれなかった福助が、病の症状を晒して舞台にたっている。ボクの感動は病気を押して…ではなく、その結果の舞台の演技の…なんというのだろう熱というのか執着が見えて、それは役者の魂だと思う。…それを歌右衛門にぶつけられたら、海老蔵のように苦言を振り払えたら…と、思うが、歌舞伎に[もし]はない。でも福助の今での役者としての演技は良い、素晴らしいと。僕は『三代目田之助』の特集をしているので、役者の身体欠損がむしろ役の艶には繋がることがあることを知っている。当代、先代の座頭の部屋に入る筆頭女形もそれを隠し補っての演技だからだ。歌舞伎役者は、身体の不調を隠してそれと知られないように演ずる美学に立っている。だから、澤村藤十郎さんに田之助の演目をと思うが…歌舞伎の役者は欠損を晒すことは決してない。だからこそ三代目田之助は、異彩を放っていたのだ。最近は少し解消されたが、雑誌を作っている頃はまるで居なかったか、そんなに凄い役者じゃなかったという風に歌舞伎界も扱っていた。所謂ゲテモノ?皆川博子さんが『花闇』で書き、それを読んで特集を組んだ。三代目田之助は、九代目團十郎、五代目菊五郎と並ぶ、というか、二人に一目も二目もおかれていた、若手だった。舞台上で九代目を大根と言い放ったり、顔見世興業で三座掛け持ちという離れ業もしたり…で、手足を失っても舞台に立ち続けた、いや立てないので、あり続けた。身体の悪い部分をもって舞台に上がるというのは、今の大歌舞伎ではあり得ないことである。福助は立っているだけで、誰よりも役者としての存在感を見せていた。この存在感で歌右衛門であったらと、思う。ボクは福助は今から歌右衛門をめざしても良いと思う。三代目田之助の出し物をどんどん演じるというの良いと思う。その身体が武器になる。
 僕はたぶん、歌舞伎の中で異彩を放つ役者を見つけては、秘かに応援していくだろう。これまでのように。菊之助も幸四郎も猿之助も好きだけれど、歌舞伎のシステムの中で、輝ききれない才能がたくさん埋もれている。そのある時見せる瞬間の輝きを見落とさないようにしたい。死んだ同い年、誕生日一日違いの尾上梅之丞とか…そんな役者たちを愛で続けたいと思っている。だから実はどちらにしても歌舞伎は大安泰なのだ。

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