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日々是徒然/ちくさ正文館・古田一晴

ちくさ正文館・古田一晴

 それは、カリスマ店員という言葉もなかったころのはなし。ちくさ正文館の古田一晴に初めて会ったのは、1978年、盛夏・名古屋。千種の夏は暑かったけれど、今ほどの灼熱ではなかった。営業トークを頭で繰り返してから、意を決して店内に入ると、すぐに珈琲飲もうと言って連れ出された。いつ口をつけたら良いんだろうと思うくらい、ずっと本を売ることについて話している。(たぶん。申し訳ないほんとに内容は覚えていない。)2時間くらい、いやもうちょっと、話は続いた。その日、名古屋の営業はそこで打ち止めになった。
 夜想『マンディアルグ/ボナ』の営業シートをもって、全国営業をしていた時のことだ。ひょんなことから雑誌を作ることになって…それだったら『思潮』とか『牧神』の真似をして…とか。まったく本の作り方も運営も知らないので、書籍コードを借りることになっていた晧星社の藤巻修一さんのレクチャー(アングラに近い超零細出版社が成立するとしたら、取次ルールの範囲ぎりぎりの方法で、こうすれば良いという方法だった。後で知ったのだが藤巻さんの、周辺の出版社は誰も実現できていなかった。)だけを頼りに、すべて鵜呑みして、5000部の注文をとろうと、汗を散らしながら全国営業をしていた、名古屋でのこと。

 実績零で、(ペヨトル工房はまだ会社登記もしていなかった)ただタイトルと著者名が書いてある『夜想』の営業シートをもって、注文をとって歩いていた。もともと、営業なんて絶対にしたくないって思っていた。大学を卒業して、二年にわたってマスコミ37社を受けて全滅したが(半数以上は面接に残った)。朝日新聞社、集英社、TV神奈川(最後の4人に入っていて採用4人だったけど落ちた)…残ったのはこの三社だけではないが、覚えていない。どこかの出版社で、営業もできるよね?って言われて、編集じゃないと嫌です。と、さらっと答えていたのだけは覚えている。とんがっているというか、生意気というか…。
 仕方がなく始めた、いや切羽詰まってとにかくやらなくちゃ…ではじめた営業だが、けっこう注文くれるので驚いた。人生やりたいことが得意だったり、それで世間に認められるなんていうことは、あんまりないんだなと、今にして思うが、そんなことも分からずただ必死になってやっていた。
 今はないけれど、高田馬場芳林堂(150冊)とか、京都の京都書院、ふたば書店、三月書房とか、大阪紀伊國屋とか…もちろん三省堂、旭屋とかのチェーン店も、リブロも。リブロはまだリブロっていってなかったかも。
 で、名古屋はちくさ正文館。数はたくさんもらえないけど、ここに認められないと駄目だと、藤巻さんは云っていた。で、冒頭の話。行ったらいきなり珈琲飲みに行こうって連れ出された。励ましの説教を…どうだろう2時間くらい話してもらったかもしれない。中味は…申し訳ないけど、覚えていない。もちろん注文はくれて、以来、ずっと今日に至るまで、うちの本を可愛がってもらっている。この説教のような話をしてもらうのを古田詣でと言うらしい。最近新聞で知った。

カリスマ店員

 結果、創刊号になる夜想の、その時の営業で、今で言うカリスマ店員さんに何人にも出会った。銀座旭屋の松田さんには、「営業のトークやり直し。出直しておいで」みたいな檄を飛ばされた。リブロの今泉正光にもその時にあっている。名古屋も京都も大阪も鈍行の東海道線に乗って営業をした。とまるところは安い寺経営の社務所とか…。のちに、松田さん今泉さんが浅草リブロに揃ったときがあって、浅草に会社あるのに夜想がまったく入っていないので、営業に行ったら、ここで売れないでしょうって言われて、いや、夜想は浅草で作っているんだから…と言っても全然だった。でも話はしてくれる。本当に良い店員さんだ。この時代の店員さんは、売れるということと、中味ということをちゃんと分けて把握していた。本屋にはゴールデンスポットといわれる場所がいくつかあって、そこに置けば、たいがいの本は売れる。どんな本でも売れる力量を店員さんが持っていて、よし、夜想頑張れってなったら、比較的動きやすい場所に贔屓して置いてくれたりしていた。で、実際売れる。
 高田馬場の芳林堂も一週間で100冊越えして、手で追加を運んだ記憶がある。競うようにして売ってくれていた。ちなみに夜想創刊号、一年半くらいで3700冊くらいまでいったと思う。売れたと思っているが、売ってもらったのだ。そんなことが分かるようになるのはだいぶあとのことだ。
 その初回営業のときに出会った店員さんで、唯一現役で売り場に立って残っていたのが、古田一晴さんだ。お疲れさま。お互いに…。そして本の営業以外でつき合った書店員さんも、古田一晴さんだけだ。ちくさ正文館の二階がリニューアルされるのを知って、そのまえに使わせてもらうことにした。名古屋のダンサー・倉知可英を中心にマンディアルグ『海の百合』をダンス作品にして上演した。ペヨトル工房を一旦しめたときのペヨトルファイナルのイベントの運営メンバーにも入ってもらっていた。

 冷房をキンキンに利かせた店内で、ちくさ正文館の店長・古田一晴は、今日も本を入れ替えているのだろうか。きっと最後の日まで、仕事を淡々としているのだろうか。
 「本は、同んなじところに置いとくと根が生えちゃうんだよ。毎日、少しずつ、動かして、それで、本の並んでいる流れを変えていくんだ。お客さんとの対話でもあるし、バトルでもあるんだよ。これが不思議に触ると売れるんだよね…」そんな本屋さんの売りノウハウ(と、言っても大変な日常の積み重ね…)を聞いたのは、初めて会ってから何十年も経ってからのこと。古田さんから余り本のことを学んでこなかった気がする。

 ちょっとショックなのは、今回の報道で、ずいぶん上の偉い人だと思っていたら、そんなにほとんど歳が違っていなかったのに初めて気がついた。えー、超敬語だったんですけど…。
 本がちょっと駄目…という本屋さんが辛いという…現状を嫌といほど突きつけられた感じがする。
中堅出版社の代表の人に聞いたら、出版は業態変更をするための補助金がでるようになっていると。つまり出版は超不況業種で、早く違う仕事をした方が良いと、政府が認めているということになる。分かっちゃいるけど、知っているけど、身体がついていかない。どうにかなるんじゃないかと思い続けていた。だけど古田さんが駄目だということになるなら、たぶん、駄目なんだろうな。放棄するべきなんだろうなとも思う。そんな話を、名古屋にすぐにでも飛んでいって話を聞きたい気持ちはあるのだが、自分今は東京から動けない。

虚血症大腸炎からS字結腸癌

 先日、発症した虚血症大腸炎から退院して、念のための内視鏡検査をしたら、6センチの大きな癌腫瘍がS字結腸から見つかって、現在病院を変えて(大きい専門病院でないと処置できない)、検査、手術という過程にいる。結構やっかいなようだ。何かあったらいけないので、いつでも呼び出しに応じられるところに居てという状態にあるので…しきりにちくさ正文館のあたりの空を思いだしながら、本というメディアの存続はどうなるのか、東京の灼熱の青い空を感じながら、部屋に蟄居して本を詠んでいる。
 病院で内視鏡検査の順番を待っている時に『ぼくはあと何回、満月をみるだろう』(坂本龍一)を読んでいて、ちょうど病気で病院とやりとりするあたりを読んでいた。何か癌に対する、死に対する情報も書かれているかと思っていたが…この本はぼくにとっては、芸談に近い。現在から未来への考え方の変革を示唆する仕事をしていたと思うが、あるところから抒情に生きている。寅さんとか歌謡曲とかね…。
 こういう風に見られたいという坂本龍一が、私として存在していて、その私の居る風景を描いている。(その話はまたどこかで…)ここに書かれていない坂本龍一は、もの凄く赤裸々でちょっと嫌かもしれないが、凄い存在だと思う。
 それは置いておいて…まぁまぁ似たような場所から僕に癌が発見された。S字結腸のあたりに6㎝の患部が見つかった。カルテを見たら癌と書いてあった。これから順番待ちで三週間、患部をとって検査して先の方針を決める。どうなるか、どうなっているかはまだ分からない。
 さて、『ぼくはあと何回、満月をみるだろう』の出版の宣伝文句に、 
かつては、人が生まれると周りの人は笑い、人が死ぬと周りの人は泣いたものだ。未来にはますます命と存在が軽んじられるだろう。命はますます操作の対象になるだろう。そんな世界を見ずに死ぬのは幸せなことだ。
という部分が引用されていた。
 これ自分の方にあて嵌めると、出版がこんなにぐちゃぐちゃになってしまう現状は、始めた頃には想像もしなかった現実で、未来、自分が紙で本を作るのだとしたら、どうなるんだ? 少し前までは確信をもって、隙間を攻めまくって本を成立させてきたけれど、今は、途方に暮れる感じ。把握ができない。価値観が変わっても来ているし…。見ないですむから…という分けにはいかない。一番、気持ち悪いのは、自己判断できないということだ。
 終結の見えないウクライナ侵攻戦争で、何十万人という人が命を失っていくのだが、それが、一人の妄想が戦争というメカニズムを使うことによって起きているところから、アメリカが勝たせないように負けないようにという、戦争の介入をしたために、延々と人が死んでいくという流れになった。
 戦争のことは、教科書で読んだくらいだが、明らかに違うことが起きている。本を読み、日々TVとネットを見続けて、戦争の動向を見ながら、自然と身についた知識は…じゃあ日本が満州でした戦争の、その分析が違う風にされていることや、沖縄や樺太や、全国各地で終戦の後、軍がしたことのいろいろを、総括できていないということを、うっすらと予感する。
 分かっていて止められない間に、大量の人が死んでいく。ウクライナに自分が居たら。そしてロシアに居たら。自分はどうするのか?どうなるのか。その時の死というのは、どんなものなのか。自分で決められない死が、こんなにたくさん、21世紀に入って存在している。少し前の日本に自分が居たら…。たぶんシステム的には逃げられないだろうから、戦地に行く。で、突撃命令がでる。
 どの戦争も兵隊にとっては悲惨な戦争だが、めちゃくちゃな突っ込み方をさせられているロシア軍を、嗤うようにしてコメントしているが、かつての日本軍は、軍事不合理的にどれだけ突撃をさせられたことか。しかしそこに居る自分というのは(歳だから徴兵はされないけれど、だからこそ考えなければいけない。自分が行かなければ良いというのは、良く云う話だ。)あり得る話だ。
 死と云うのは個人的なものだから、本来はある程度、自由なものだ。だが戦争はそうではなくなる。戦争に係わった文学、藝術も、ちゃんと総括をしない限り、戦争と、戦争を遂行した感覚と繋がっている。否定するんじゃなくて、見なくちゃいけないということだ。否定をすることで自分の意識を免罪することになる。否定をした人は、自分がその状況になったときに、否定をせずに従順する。
 否定とか、どうやって止めたら良いかと云う前に、見なくてはいけない。見てどうなっているのかを知り、把握しなければならない。未来や現在を思考するのはそれからだ。だからできるだけ早く、現在起きているこの渾沌を見抜かなければならない。騙されずに。操作されずに。(できるだけ。完全な認知はできない)

 死とか戦争とかを見ることも重要だが、自分の生きてきたフィールドのこの渾沌を見ることも必要だ。本はどうやったら持続可能に存在できるのだ。とか。創造に関与した集団が組めるのかとか。

Ps——


 YMOとアングラ。その盛期は短かったかもしれないが、むしろAfterがずっとずっと続いて、70年代から現在にまで文化を継承してきたような気がする。(まぁそこを自分が生きてきたからそう思うのだが)
 YMOもアングラ(僕のアングラは寺山修司、土方巽だけれども)の本当にとんがって存在した短い時期、同時代的には理解はされていなかったと思う。受け入れ共感されたところは多いにあった。YMOも天井桟敷も暗黒舞踏もそのもの自体のパフォーマンスやアルバムは、何か分かんないよなぁー、でもかっこいいなぁというものだった。だからアフターの時代にそれを突き崩しながら、何かを生みだす源泉となってきたのだと思う。寺山修司も土方巽も21世紀のまえに姿を消した。坂本龍一は、世紀を越え、AfterYMOを自分自身で展開し続けたのだ。もちろん大きく展開しながら…。その坂本龍一が姿を消して、Afterという文化の源泉がフェードアウトしてしまったとき、文化にも大きな渾沌が突きつけられるのかもしれない。(もともとあったものが見えやすくなったということであるかもしれない)
 自分の活動も1978年あたりだから、好き嫌いは別として、afterの中を生きてきたことになる。(僕らの世代は土方巽の舞台を見れていない。寺山修司の野外劇を見れていない。)80年代に始まったニューアカもafterYMOに深く絡んでいた。

 そして、まぁ関係あるようなないような話なのだが、そんないろいろ自分も含めて[終わる]という決意で(大げさ過ぎるなぁ…)ロン毛を切った。
 自分のロン毛は、坂本龍一が出演・音楽の『ラストエンペラー』の口切りの上映が東京映画祭で行われ、それを見た夜に、行きつけの美容師さんに弁髪にしてもらって、坂本龍一にインタビュー(雑誌『WAVE』用)したことに始める。溥儀役・ジョンローンのコスプレをして、丸いサングラスをしていった。教授はもの凄く喜んで、こんな馬鹿な編集者がいるって、ベルトリッチに送ってやろうとポラロイドで撮影していた。インタビューは面白かった。ちなみに、東京映画祭では挿入されていた南京大虐殺のドキュメントが後に外されることになる。
 弁髪変形のロン毛のスタイルは、何故か浅草やピナ・バウシュに受けたりしたこともあり、あ、北斗晶にも…とかいろいろあって、(会った人が一回で覚えてくれる)ずっと今日まで延ばしていた。髪を切ってくれているのは、ロリム(昔はエイトアンドハーフ 8と2分の1)の武南(たけなみ)さん。病気になっちゃったって入院前に奇麗にしておこうと、出向いたら、邪魔だから切りましょうねとすぱっと切ってくれた。
 ああ、こういうことか。と、分けも分からず納得した。僕はクリエイターではなくジャーナリストだから、振り返るにしても、臍の緒的尻尾がないほうが良いだろう。あらゆることから自由になれば良い。そんな風にも思った。難しいけどね。とても。

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