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木内マジック(前編)

24日取手二高、常総学院にて3度の全国制覇を成し遂げた木内幸男氏が死去されました。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

野球ファンや茨城県民でないとピンと来ないかもしれませんが、
甲子園での勝利数は40勝で、高校野球史の中では「名将」になります。

またかつては「野球弱小県」であった茨城県を「強豪県」に変えた実績は大きいです。

木内氏の采配は「木内マジック」と称され、
ここぞの場面で選手が実力以上の力を発揮する活躍に胸を躍らせました。

また楽しみは試合後の監督インタビューで、
茨城弁丸出しでニコニコ話す姿、
普通の監督では言わないようなことを言うのが楽しく、
「このおっさん今日は何をしゃべるのかなぁ」
と楽しみでした。

木内采配。
私も教師としてたくさん学ぶことができました。
(少々おこがましいですが)

今日は私なりに取手二高が全国制覇した時のメンバーと常総学院での選手を伸ばした秘訣についてお話します。


1 野球エリートのPL学園を倒した公立の取手二高

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今の高校球児を見ていると、あの当時の取手二高っておもしろいチームだと思いました。

野球をやっていなければただの「不良」ですし、
グランドを離れればタバコ、バイク、お酒、女は当たり前の時代でしたね。
(もっともこれは取手二高だけでなく全国的にそうだったかなぁ笑)



(1)ツッパリ軍団を「野球で戦う集団」に変える

あの清原氏をもってして、
「あの時の取手二高は『ルーキーズ』みたいなチームだった」と
後に語っていましたからね。

キャプテンの吉田主将を筆頭に超個性派のレベルの高い選手が集まったことで、
全国で勝てるチームになれると木内監督は思ったのでしょう。

彼らが2年生の春は選抜出場(初戦敗退)、
3年春は選抜ベスト8。

いよいよ夏は・・と期待がかかる中、
春の県大会は準優勝、関東大会は初戦敗退

後に夏の決勝で桑田・清原率いるPL学園と親善試合では0-13の大敗・・

チームがバラバラになり、
夏の大会直前で3年生が2週間練習を「ボイコット」してしまうまでになったそうです。

ところが木内監督はそこは「想定内」みたいだったようで。
ほどなくして監督と選手との「溝」は解消。

ここから一気に「快進撃」が始まります。

選手の個性を見極め、
緩めるところは緩める。

なんと夏の甲子園期間中、
初戦の箕島戦(和歌山)に逆転勝ちをしたご褒美に
翌日須磨海岸に「海水浴」をさせました。

こうした取手二高の快進撃を
当時のマスコミは「のびのび野球」と言ってました。

しかし、エネルギーが有り余った選手をうまく消化させ、
試合に集中させる手腕はなかなかです。


(2)試合の流れを相手に引導させなかった決勝PL戦

初戦を大逆転勝利した後、3回戦、準々決勝、準決勝と大勝をしていきます。
準決勝では吉田選手がノーサインでホームスチールを決めるなど、
ますます選手たちの能力をいかんなくグランドで発揮します。

そしていよいよ決勝は桑田・清原の「KKコンビ」のPL学園です。
PL学園は当時では全国のチームが打倒!というほどの日本一のチームです。

前年夏は優勝、この年の春の選抜は準優勝。
しかも前述のとおり2か月前の招待試合では完敗。

いくらここまで「のびのび野球」で勝ち上がってきたとはいえ、
下馬評ではPLの有利でした。

ところがこの日は取手二高が有利な条件がそろいます。
決勝直前桑田投手の右指に血マメができてしまいます。
しかも決勝当日、朝は台風接近の影響で大雨・・

桑田投手も「今日は中止だろう」と思ったそうです。


ところが試合は決行。
約30分遅れての試合開始となります。

さらに初回の取手二高の攻撃ではセンター前ヒットが雨の影響でボールの回転が普段と違ったためセンターが後逸・・初回に2点を先制します。

PLもじわいじわりと追い上げますが、
取手二高も追加点を取り9回表まで4-3とリードします。

ところが9回裏のPLは先頭の清水哲選手が同点ホームラン。
さらに次のバッターは死球・・

流れが一気にPLに傾くところで、
木内監督はここまで投げてきた石田投手をライトに変え、
柏葉投手にスイッチします。

そして次の打者が送りバントをするも、
キャッチャーの中島捕手が2塁に鋭い球を投げフォースアウト。

するとすぐに、石田投手をマウンドに戻し、
清原選手など後続を抑えて延長戦に入ります。

この柏葉投手のワンポイントリリーフは当時では画期的なことでした。

後に木内監督は、
「石田を冷静にさせるためにライトに行かせた。すぐにマウンドに戻したらピョンピョン跳ねて戻ってきた。まだ大丈夫だと思ったよ」
と行ってました。

(3)あり得ない「大根切り」でホームラン!!
延長戦になって取手二高ナインは落ち込むどころか、
ベンチは盛り上がります。
そして延長10回で先ほど送りバントを封じた中島選手が高めの振らなければボール球を「大根切り」で打ってレフトスタンドへホームランを打ちます。

後に中島選手は「狙っていた」と言ってました。

一方で試合前に血マメができた桑田投手はこの回には血マメが破れ、
コントロールが狂い始めました。

結局8-4で取手二高がPLを倒し、
はじめて深紅の優勝旗が茨城県に渡ったのです。

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2 前編まとめ

取手二高で大分スペースを使ったので、
常総学院時代については「後編」でお話します。

少なくとも木内監督の中では、
常総学院よりもこの年の取手二高の選手が一番思い出深いチームだったのではないでしょうか。

「おだてたり、すかしたりしながらここまで来た」
と優勝後木内監督はおっしゃっていました。

今の子供たちと違って、
「ツッパリ軍団」をどう「野球で戦う集団」に変えるか、
木内監督なりに試行錯誤したと思います。

選手との様々な「摩擦」の中で、
選手との信頼関係を構築し、
選手たちがどうしたらグランドで実力以上のものを発揮させるか。
これも試行錯誤の連続だったと思います。


だからこそ「野球エリート」とは「真逆」な「のびのび野球」は多くの野球ファンの心をつかんだチームでした。
(ちなみに夏の大会終了後、桑田投手は「この人たちはどんな野球をしているのか?!」と一人茨城取手まで行って練習を見に行ったというエピソードがあります)



木内監督も土浦一高で監督就任をし、のちに取手二高に移り、
はじめて甲子園に出場するまで約30年近くかかりました。

「甲子園は1回目は修学旅行。2回目は校歌が聞きたくなる。3回目は周りが見えてくる」とおっしゃっていました。

全国制覇するまで春2回、夏3回出場し、
ようやく手にした全国制覇は
それまでのご苦労が実った結晶だったでしょう。

この経験が全国制覇後すぐに移った常総学院で開花します。(続く)

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