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よっぱらい専門店

この街に高層ビルが立つもっと昔に私が酔っ払った日の話です。

相当長い時間飲んでしまいましたから深夜だったと思います。でも人通りはそれなりでした。
ひとに裏切られやけっぱちになっていまして、右も左も区別がつかないくらい酔っ払ってしまいまして。
いつもの飲み屋街の行きつけのバーを出た途端、知らない店が目の前にありました。
とても古い看板でした。手入れはしておらず、ひび割れていました。ドアは少しだけ開いており、そこから光が差し込んでいます。壁は手入れしているとは到底思えない壁面緑化です。開店したてとは程遠い重厚感のある外装でした。
私はそれなりにあの街で飲んでいたので、新しい店の情報なんてすぐ耳に入る自信はあったので驚きました。
いつも歩く街に不自然に煌々と光る看板。吸い寄せられゆっくりと扉を開けました。

サラリーマンのお客さんがふたり。中年のママがカウンターに立っています。赤いルージュとツリ目が印象的でした。
店内は静かで暗かったです。壁にヒビが入っています。仄かな照明に蜘蛛の糸がたまにチラチラと反射します。何年使い込んだか分からない小さなスピーカーから細々とノイズにまみれたラジオが聴こえてきます。言葉は聞き取れません。
ママはこちらを少し見て、早く座りなさいなと手を差し出し、目の前の椅子へと促してくれました。

私は店内を見回した途端、立ち尽くしたまま突然涙が溢れてしまいました。
今思えば酔っ払っていましたし、悲しい思いもしたからかもしれません。
でもなぜでしょう、あの古びた店内を今でも覚えています。
初めて訪れたはずなのに、とても懐かしかったです。
失ったものが突然目の前にまた現れてくれたような、昔のフィルム写真を見返して涙がぽろりと落ちるような、幼い頃に無くしてしまった大切な玩具が手元に帰ってきたような、もう取り返しのつかない戻らないものが戻ってきてくれたような、そんな感覚でした。

ママは私を見て静かに微笑みました。
もうこの時間だと焼酎の水割りしか出せないよ、と言われ素直に応じました。
その水割りの濃さといったら。
ばかだね、みんなこれくらいの濃さが当たり前だよとなじられましたが、喉から火が出そうなほどでした。

サラリーマンもママも、静かに焼酎を飲んで煙草を吸っていました。時折話して時折笑いました。
もう閉店ですよ、またねと言われお会計をして、扉を開けました。
その次の瞬間なんと私は街の道端に座り込んでいたのです。
おかしいぞ、今の今まで立っていたのだけどなと立ち上がり周りを見渡したらあの店の灯りが無いのです。

看板の電気を消すのが早いなと目を凝らしたら、なんと看板も、扉も、あの壮大な壁面緑化すら見当たりません。
そんなまさかと、記憶でも飛ばしてしまったかと思いまして、私は街中歩き回りました。一軒一軒念入りに見ていきました。人にも聞いてみました。それはもう街中の人に。
それでもあの緑に覆われた店はどうやっても今日までも見つかることはありませんでした。

最近はどうしようもない酔っ払いだけが入れる秘密の店だったと、ひとに話しています。
これが悲しいことに酔っ払いすぎだと誰も信じてくれませんが。
でも私は絶対に夢だとは思いませんよ。
今でもあの焼酎の味を覚えていますから。
遥か昔の話なのに鮮明に記憶にこびりついて、こう思い出話として語り続けて、それは女々しい人間です。
無くした玩具や失った思い出は、手からこぼれ落ちた瞬間を覚えているからこそ忘れられないのです。

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