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日本語検定の日

語呂合わせにちなんで、日本語検定の協賛を行っている東京書籍が2月5日に記念日を制定 2月5日で日本語と表す語呂合わせはどんな文法なのだろう。。。

よく日本語ネイティブに日本語は曖昧であるという。
私は外国人に日本語を教えた経験がある。今日は少し日本語について考察してみよう。
◯主語について
日本語にまつわることについて、主語がなくなる面白い言葉といわれることがあるが、これは主語がなくなるというより、主語らしいことが主題-解説という文になっているにすぎないということもある。
たとえば、
日曜日は、バーベーキューをした。
主語のおそらく”私”が抜け落ちてしまっているが、補って書くと
→ 日曜日は、私はバーベーキューをした。
ということになる。一見、日曜日がまるで擬人化して肉を焼いたみたいにも解釈できるが、これは、日曜日というのが主題になっていて、その日の解説がされているという構造を持っている。主語はあくまで私であり、これも補うと、
→ 日曜日には、私はバーベーキューをした。
という具合になる。この”に”をニ格の格助詞という。時をあらわす言葉が主題化されたというわけである。
こういった具合に、格助詞にはヲ格、ガ格、デ格、ニ格、ト格が主題化される品詞ごとにある。もう一つ例を出そう
”そのケーキは弟が食べた” 
もうおわかりのように、ケーキは目的語である。弟がケーキ食べたのだが、ケーキが主題化されたわけなので、目的語の主題化が行われている。これはヲ格の格助詞というわけである。
ネイティブの日本人は適当に”日本語は曖昧だから”と蓋をして教えることを避けてしまっている人も多い。
このうちのガ格は主語が主題化されたものである。
”ケーキは私が食べました。”といえば、ほかの誰でもない”私が”といった具合に主語が、主題化されたものである。これを主格というが、日本語の研究者の中には、主語ではなく主格と読んで教えたほうがよいという意見もある。
参考までに主語を省略する語はたとえばイタリア語がそうで、
Devo andare a lavorare domattina.
(je dois aller å travailler domain (fr))
といった具合に、Io(私)が省略される方がこなれた言い方である。
しかしこれは動詞の活用語尾が主語を含んでいると見るべきである。
andareは行くという意味でdevereはフランス語でいうとdevoir 〜しなければならないという意味で、Ioに続くならdevoしかない。
(Io devere → Io devo → devo) 
イタリア語に主語の曖昧さはない。同様に日本語だって主語がはっきりしないが、主題ははっきりしている場合が多く、少しも曖昧さはないともいえるのに、曖昧な言葉だから、という片付けでしまったのでは日本語が可哀想だ。
ちなみに が と は の違いはうまく説明が私もできないが、
英語圏の人に教えるときには、
a old man = ”おじいさん
the olde man = ”おじいさん
といった具合に、冠詞からの対応ならわかるので、このように教えると英語圏の人は安心するときいたことがある。

◯ 思いやりの言葉
1.AさんがBさんに日本語を教えてあげた。
2.BさんはAさんに日本語を教えてもらった。
という表現は外国人にはわかりにくい表現である。
私は、思いやりの省略形であると思っていてそんなふうに説明していた。
事実、本物の日本語教師もそのように説明する人もいる。
つまり”日本語を教えるという思いやり”をあげたり、もらったりしているのである。
奥ゆかしく省略される場合が多いのだ。
心のどこかに、贈与は、天に代わって自分が行ってはいけないものであり、恩着せがましく、もらったり、あげたりしてはいけないのであるからこれを省略するのである。まるで、サンタクロースが見られてはいけないかのようである。このあたりはそういう文化論まで話が及びそうである。
日本語のよいところみたいな言い方まではしないが、思いやりが省略されている文化であり、主語が省略されることもあるが、それは主題の強調されるがゆえである。

◯ら抜き言葉
そうはいっても日本語の文法はたしかに複雑ではある。複雑なために、間違えて覚えてしまうことがよくある紛らわしい点も多々ある。でもそんなことを言えば、ヨーロッパの言葉はラテン語の誤用であるともいえるが、まぁ、文法を間違えたわけではないので誤用というのは言い過ぎで、つまりは方言なのである。英語の成立の歴史は、ゲルマンつまりはドイツ語がもとになっており、1066年のノルマン・コンクエストでフランス語が流れ込んで混じってできた歴史を持つ。boxの複数形が boxesなのに、oxの複数形がoxenなのはラテン語の文化がまだ残っているからである。
参考note→go
これとは違って、ネイティブでさえ間違えてしまうのが、ら抜きである。
”食べれる” というのがそれである。若い人たちだけというわけではなく、
歴史の中の変遷ととらえるべきで、年輩から「明日は会合に行かれない」とかきくことがある。
これは本来、”行けない”というのが今の正しい言い方である。これも英語と同様、歴史の古い言語の変遷の中で”ら抜き”があったことを示す。ら抜きとは、文法の言葉でいえば、母音動詞の可能系には”ア段の文字”が入るべきところなのに抜けてしまう誤りが広まり定着したことを指す。
母音動詞とは、上一段・下一段活用のいわば総称で、語幹が母音で終わるからそう呼ばれる。行くは下一段活用だ。見分け方は、過去形にしたときに促音便やイ音便が入るものが、母音動詞である。行くの過去形は”行った”で促音便するため母音動詞である。この言葉でが先にら抜きが起きていたのである。その変化(=ら抜き)が、行かれる→行ける、書かれる→ 書ける、読まれる→読める というわけである。

ほかにもまだまだ、日本語の文法について書きたいことはある。
これからグローバルな世の中になっていくが、日本語にますます磨きをかけて、きちっと日本語を教えたいと常々思っている。毎年この日はそうした勉強の成果を発表する日としよう。

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<来年の宿題>
・日本語の文法について
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日本語検定試験 毎年2回 海外からくる技術者のマイルストーンになっているこの試験、私も毎年 悲喜交交のドラマを感じる。若い人からパワーをもらえるチャンスでもある。


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