見出し画像

【日記】私のわすれもの

みなさま、ごきげんよう。

私の名前はぴよむにだ

昨日、友だちに誘ってもらって下北沢のブックフェアやライヴイベントなどに参加してきたのだが、皆やさしそうな笑顔を浮かべながらも、心には怒りの炎を灯していた。

オルタネイティヴの精神を持っていた。

理性的で気品すら感じるも、一瞬の気の緩みで身体の中で抑圧された獣が解き放たれてしまう危うさがそこはかとなくあった(しかし、身の危険などを感じることはなかった)。

漫画作品や文学、音楽などありとあらゆるものに触れたのだが、どれにも自らが外の世界に伝えたいメッセージが込められていた(本来、創作とはそうであるべきだとは思う)。

自分の伝えたいことが、そのまま文字となって印刷されていたり、電気信号に変換されて爆音になったりしていた。

オルタネイティヴの精神はハードコアのそれとは違う、過激さがあった。

例えば、ハードコアは騎士道精神的なものに通ずるが(タトゥーや鋲ジャンなどは彼らにとっての鎧だ)、オルタネイティヴは柔らかい粘土だと思って触った瞬間、千の棘に変わるのだ。
言うなればハリネズミだ。

そして、素手はいつしかメリケンサック付きのグローヴへと変わっている。

しかし、この感覚は私が持っていたものと近い。

丸っきり同じとは限らないが、私の忘れていたものに近いかもしれない。

いつしか世界に興味がなくなり、TVでやっていることには目を背けて、自分の周りしか見ないようになっていた。

逆に広い世界を見据えすぎて、今自分が住んでいる惑星ほしの出来事が蔑ろになっていた気がする。

か細い声で紙のような薄っぺらい言葉を歌う、嘔吐しそうなくらい甘ったるい流行りのラヴソングの風に当てられて、頭がバグを起こしていたのかもしれない。

言論統制が光学迷彩を纏って忍び寄る近年、創作物のメッセージというものが非常に重要になるのではないかと私は思う。

特に私が普段用いている手法のひとつとして詩があるが、暗喩的に批判を込めた文を書いたとしても表面的には当たり障りのない体裁にすることすら容易である。

これは先に記載したハリネズミ効果とでも呼んでおこう。

いくら監視の目が強くても、暗喩を詩にする方法を用いれば獰猛なサーカス団のライオンも危害のない仔猫ちゃんに擬態させることだって難しくないのだ。

これは、少なくとも詩が読者の想像や感覚に委ねられる手法だからだろう。

また、直接的な表現が検閲されるならば風刺画なども有効な手段と思われる。

あまり度が過ぎれば検閲対象になりかねないが、いい具合に暗喩を用いれば素通りできるに違いない。

私の忘れものが見つかったかもしれない、とても刺激的な日だった。

権力を殴り殺す用意は、いつでもできている(メリケンサックを嵌めながら)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?