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生きるというのはあり得たかもしれない今日を捨てていく作業だ


この歳になると現実じゃない、叶わなかったいくつもの現在をあれこれ想像できてしまう。
そして幾度か通り過ぎた過去の分岐点に遡っては、あの時こうしておけば良かった、ああしておけばもっと違ったって悔やんでほうっとため息をついたりする。

(もしあの時、あの子に怒ったりしなければ、今もずっと親友でいられたのかも。
もしあの時、あの人に勇気を出して告白していれば、ずるずる引きずってつらい思いをすることはなかったかも。
もしあの時、数学の勉強をちゃんとしていれば、今頃一級建築士の資格を取っていたかも。
もしあの時、もしあの時、もしあの時…)


幸福であっても不幸であっても、今いる場所って案外自分が選択してきた所だ。
自分の心に従って進んだ。この道しかないと思えたから進んだ。悔しいから素直になれなくてこの道を来てしまった。なんとなく、あの人と同じように歩んでみた。無意識のうちに望んでいたことを実現させようとしていた。
全て突き詰めれば、そうでしょう?


ワクワクするのか、安定か、努力か、体裁を守るか、見栄を張るか、他人のためか、諦めるか。


レールが敷かれていない人生というのは、恵まれている反面、自由地獄だ。自分で指針を定めなきゃならないし、何かしらの選択肢を選び取って前へ進まなきゃならない、そのための判断基準は結局のところ全て自分。たとえその選択が周りの環境や人に影響されて選んだものだとしても、1%でも別の選択肢を選ぶことのできる可能性があった限り、最終的な決断を下したのは自分。
その意味では、本来なら自分の人生に言い訳なんかできるわけないし、現在の不幸によって他人を責める権利もない。

つまり、人生は大体のことなら自分の選択によって進めることができているということである。そんな風にいうと急に自己啓発めいてしまうけれど、自分で選べるからといって全て満足のいく結果になるとは一言も言っていないのを特筆しておく。(なぜなら物事には表裏があるから)
そして、今述べたことを逆説的に言えば、生きていくというのは、ありえたかもしれない今日、膨大に開かれていた可能性を一つづつ捨てていく作業だということだ。


空洞があれば、そこに溜まっていくものがある。
何ものにも染まらないつもりでも、いつのまにか何かしらの一色を湛えている。
両方手に入れようとしても、片方を手放さなきゃいけないタイミングが必ず来る。


何かを選ぶと同時に、他の何かを失いながら今日を生きている私たち。
失ったものほど美しく見えたりして、時々強い悲しみや痛みに打ちひしがれるけれど、死ぬ時にはせめて、全て清らかに精算されていてほしい。


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