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私は感情への服従をやめられません。


富良野のスキー場で、子グマ3頭が射殺されるニュースが飛び込んできた。

リフトに乗っていたスキー指導員の女性がクマを目撃し、危険を察知して警察に通報、巣穴を発見したのちに3頭の子グマを駆除したという。

このニュースのいたたまれなさは何だろうか。
もちろん、クマを野放しにしていたら、人間の方がやられる危険性があるのは分かる。でも、本来クマの住処だった山を開拓してレジャー施設を作ったのは人間の方だ。さらに、まだ何の被害も加えていない子グマを無情にも射殺するというのは、あまりいい心地がしない。


私たちは普段、殺された動物の気持ちを慮る際のちくりとした胸の痛みという感情を、理性で飲み込んでしまえる。それは、自分が人間である以上人の命を見捨てることは出来ないし、そのために動物や昆虫などを人間に害のある生き物として区別する必要があるからだ。
この社会に慣れきってしまった私たちは、自分が今いる環境を自明のものとして認識している。学校に行く、会社に行く義務。お金への絶対的な信頼。友人との間にある絶対正義と思われる常識。もはや普通名詞となったレジャー施設。
でも、当たり前のように繰り広げられる人間社会は、実は後天的なもの、人間が後から地球上に作り出した人工物である。
そう考えると、現在の私たちが本当に小さな範囲内でしかものを見ていないし、思考をしていないことが分かるだろう。

理性が賞賛されるこの時代、感情的に害虫や害獣の死を嘆くと、あまりいい顔をされない。なぜなら、絶対的に安全が確保されねばならない基盤として人間社会が確立しているから。頭脳だけは異常に発達しているくせに、自分の縄張りは躍起になって確保しようとする。そんなところだけは野生のままなんて、本当にどうしようもない。


そろそろ目覚めるべきだ。隣人愛の本質的な意味は何なのか、悟るべきだ。個別に分かっている人はちゃんといる。沢山いる。だから信じればいい。自分だけが、と思って死の悲しみを飲み込む必要は全然ない。悲しんでいい。3頭の子グマの死を。怒ればいい。ほんの小さな声でも、あげるのとあげないのとでは全然違うのだから。私は悲しい。胸が痛い。怒りで震えが止まらない。人間が憎い。憎い、憎い、憎い。


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