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記憶に溶けていきそうな夜



玄関を開けると、母がランタンを持って佇んでいた。


初夏の匂いがする。
この匂い、東京では決して嗅ぎえない。
だから、正確には初夏の地元の匂い。

母のそばに駆け寄り、歩く。
時々たわいもない言葉を交わす。黙ることもある。

空。やっぱり地元の空は一味違う。
青と紫を溶かしたような色。
西の空にはまだ明るさが尾を引いている。東の地平線近くは闇が迫っている。
巨大な雲が、その隙間から模様を描いている。
時々パタパタと羽ばたいて横切るのは蝙蝠だ。


すぐ近所の大きな公園が見えてくる。
グラウンドを囲むように松の木が聳えているが、所々桜も植わっていて、この時期はちょっと華やかになる。

半周すると、三本の桜にたどり着く。
昨日この辺りを車で通りかかった時はほとんど真っ盛りで、目の冴えるような青空に美しく映えていた。けど、薄暗さの中にある今日の桜は寂しさを湛えているようだった。足元には花びらの絨毯が生まれかけている。
散り始めの桜だった。

そこに立ち止まってしばし花見をするのかと思っていたが、母はそのままくるりと方向転換をして行ってしまった。
私もその後をついていく。


白いライトがこちらを照らしてきて眩しい。
初め、それは自転車のライトで、誰かが公園内に入ってきたのかと思った。
迷惑だなあと顔を背けていると、人影がだんだんこちらに近づいてきて、それが父であることがわかった。さっきこちらを照らしていたのは手に握っている懐中電灯だった。

父のためにもう一度方向転換をして、歩く。
その間、母と父はいつもみたいにじゃれあう。
本当にいつ見ても子供みたいだなと思う。私は心の中で、この二人が離婚することはないような気がしている。

三本の桜の元に戻ると、父はその中の一本の根本に、先ほどの懐中電灯を立てて置いた。すると、桜に向かって泉が湧くように光が届く。いい感じに桜が照らされて、先ほどの寂寞とした感じとはまた違う雰囲気となった。
母と私はお喋りしながら、それを見上げる。父は近づいたり離れたり、こだわりの角度を探して、シャッターを押している。
闇に浮かび上がる桜の姿は、妖艶にさえ見える。散り際にほんの束の勇姿。
私たちだけが、この桜の最後の煌めきを目撃していた。





帰宅すると、ずっと忘れていたような家の匂いが鼻腔を抜けた。懐かしさが胸を締め付ける。最近はずっと実家にいるのに、気づかなかった。
なんでだろうと思っていたが、夕ご飯を食べ、シャワーを浴び、トイレを済ませ、歯を磨いている時、やっと気づいた。
この匂い、我が家の香りに初夏の香りがブレンドされた、この季節限定の匂いなんだな、と。






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