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ガチ九州縦断|九州2017 前編

「ケータイ国盗り合戦」という位置情報ゲームの旅。10年かけて全国600に分かれた位置情報を取得するため、東西南北を、電車・車・飛行機・フェリー・自転車・徒歩で巡りに巡った記録。

東京に住んでいると、そうそう行ける場所ではないのが九州である(次点で四国)。そのため、どうせ行くなら位置情報をとりまくってやろうと、九州縦断の旅を考えた。鹿児島から福岡どころではない、奄美大島から対馬までという、本気の九州縦断である。

しかしそれは、年末という時期を考慮に入れていなかったため、過去最も過酷な旅となった。

奄美大島 すし詰め

奄美大島の空港に降り立ったのは、すでに夕刻。通常であれば、奄美を観光するところであろうが、そこはガチ九州縦断の旅、着いたその足でフェリーターミナル行きのバスに乗り込む。

何せ、この日の宿は無く、夜行フェリーで鹿児島に向かうのだ。予約?してねぇな。

フェリーターミナルのある名瀬港へ。到着したときは時間が早かったのか、人はまばらだったが、フェリーの時間が近づくと続々と人が集まってきた。

フェリーのチケットを購入したところ、その船が臨時便ということに気が付く。なるほど年末らしい。

船に乗り込むと、自分の寝床は大部屋に乗客がすし詰めされたような場所。寝返りもうてないような狭いパーソナルスペースは、なんとなく東南アジアあたりのバックパッカー気分である。

なかなか眠れない中、ときどき甲板にあがって外を眺める。夜中は真っ暗で何も見えなかったが、屋久島、種子島を通過するころ、日の出とともに景色が見えるようになってきた。

あんなに大量に乗っていた乗客もいない甲板で、1人眺める佐多岬の朝焼けが、旅している気分を大いに盛り上げてくれた。

鹿児島 おいどん

鹿児島港に到着後、位置情報取得のため、竜ヶ水駅という無人駅へ。エリアの境目にあるこの駅は、鹿児島中央駅から電車で15分程度ながら、利用者数も少ない。(後で調べたところ、一日の乗降人数が1人〜5人というレベル)

ただこの駅、海に面しており、桜島も見えるという、景観的には最高に美しい駅。位置情報のために訪れた駅だったが、最高に美しい場所だった。

竜ヶ水駅で戻りの電車を待っていると、地元のおじさんが「今日は寒いなぁ〜。」などと話しかけてきた。和やかに会話していると、おじさんが「おいどん、この近くで・・・」

おいどんって本当に言うんだ!!

三角線 身の危険

生おいどんと別れ、その足で熊本方面へ。フェリーのおかげで鹿児島の位置情報は全て取得した以上、先を急ぐのである。

九州新幹線を熊本で降り、そのまま三角線というローカル線で天草方面へ向かう。終点の三角駅で下車した場所はまだ宇土・宇城というエリア。だが、ここから20分弱ほど歩くと、天草エリアの位置情報が取得できるのだ。

ということで、歩き出したところだったが、なかなか天草エリアの位置情報をつかめない。陸続きではなく、橋を渡らないと取らせてくれないらしい。

しかしこの天文橋、およそ人が歩くことを想定していない。そして熊本から天草を抜ける国道のため、トラックやらバスやら大型車が通り抜ける。右手に海、左手に大型車からの圧を受けながら、こんな辺境で一人身の危険を感じていた。

どうにか橋を渡りきり、ようやく位置情報を取得し、即座に三角駅まで引き返す。往復1時間ほどの歩きにより、予定よりも遅い電車で熊本市内に戻ることになった。

熊本城 防御力最強

熊本市内に戻ったのは15時ごろ。この日は、熊本市内泊なので、もうひと観光(というより唯一の観光)できる時間。

当然、熊本城である。

熊本城は、加藤清正によって改修され現在の形になったことで有名。天守こそ焼失したものの、ほぼ江戸期からの遺構が現存し、規模の大きさ、加藤清正改修による防御力の高さ等により、おそらく九州では最も知名度のある城だ。

その防御力の高さは、唯一の攻城戦となった300年後の西南戦争ですら、攻め方の西郷隆盛が諦めるほどの強さである。加藤清正が凄すぎる。さすが有名な方の加藤

そんな最強の熊本城も、2016年の熊本地震により、石垣が崩落。復旧中のため、外堀のあたりから崩れた石垣をみるしかできない。ただ逆に言えば、石垣が崩落しても復元天守は倒壊しないあたり、その強さが証明されている。

加藤清正(有名な方の加藤)

熊本城の周囲を一周すると、すでに日も暮れてきた。熊本城の広大さはさすが。加藤清正の像もあちこちにあるあたり、地域の有名度がうかがえる。江戸期の大半は細川氏だし、今でも細川氏は現役だけど。

熊本城を堪能した後、宿へ。熊本城にほど近い、市内の繁華街の真ん中に宿をとったため、いつでも酒の買い足しができるという、ナイスな立地。しかも新しい建物のため、滞在が快適そのもの。

今回の旅で、まともな宿泊はこの日だけのため、たっぷりと休むことができた。ただ翌日の夜は、とても過酷なことになることを、このときはまだ知らない。


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