233回 THE END OF ASIA


今回は少し思い出話にお付き合いいただきたい。
いまから40年以上前のことだ。高校生だった私は、当時一緒に漫画同人誌を作っていた1歳年上の友人と共に、大好きな少女漫画家さんの家に招かれて遊びに行った。
漫画家さんは少々ユニークな人で、音楽関係の交友関係が豊富だった。細野晴臣や鈴木慶一とも親交があったらしい。その辺りの音楽を聴かせてもらっているうちに、彼女が「細野さんが今度面白そうなバンドを組むらしいよ」と教えてくれた。
そう、もうお気付きだろう、それがかのYellow Magic Orchestra、通称YMOだったのだ。

このあたりの記憶が前後していて曖昧なのだが、おそらくその時に坂本龍一のことも聞いたに違いない。当時はもちろんインターネットなどというものはないので、音楽雑誌やレコード店で自分で調べるしかなく、それでも私は彼の『千のナイフ』というアルバムに辿り着いた。
一聴、なんだこれはと思った。それまでそれなりに音楽は聴いていたつもりだった。小学生の時に一番最初に自分で買ったシングルレコードは、サディスティック・ミカバンドの「タイムマシンにお願い」だったし、中学の時はプログレにはまり、クラシックもFMにかじりついて結構聴いていた。
だがそのアルバムに収められた楽曲は、そのどれとも違っていた。ポップでありながらアバンギャルド、コアな部分は正統的な音楽の基本を押さえつつ、電子楽器を駆使した無国籍、いや今思えばアジア的ななにかが渦巻いていた。
片面3曲ずつのこのアルバムを、何度ひっくり返してはかけたことか。なかでも最後の曲「THE END OF ASIA」は1番のお気に入りだった。

それから私の坂本龍一に対するファナティックな情熱が加速する。
“りゅういっちゃん”と自分だけの愛称で呼んで、彼に関するものはなんでも集めた。
新潮文庫のCMに出演すれば、馴染みの本屋に頼み込んでポスターのパネルを何枚ももらう。
FUJIFILMのカセットテープのCMにYMOが出れば、上野駅の地下鉄改札近くに貼られた特大ポスターをなんとかして手に入れようと画策する。最初は駅員に頼んだのだが、そんなものを欲しがる人はいないということで対応不可。仕方ないので、いまでこそ白状するが、大学の友人と共に人目がない隙をついて、剥がして持って逃げた。

その頃私はほぼ毎週のように長文の手紙を書いては、りゅういっちゃんにせっせと送っていた。宛先は何処だっただろう、忘れてしまったが、ちゃんと彼の元に届いていたことがその後判明することになる。
彼がPhewというアーティストのプロデュースをすると聞いて、当時ラフォーレ原宿の上の階にあったホールに出かけた。Phewは今でも現役で活躍しているが、彼女のソロデビューライヴだったと思う。
そのライヴには知り合いのYMOファンクラブの会長も来ていると聞いていたので、開場前にスタッフに尋ねたところ、ちょっとお待ちくださいと奥に引っ込んだ。
しばらくして出てきたのは、なんと坂本龍一本人だった。スタッフが勘違いして呼んでしまったのが原因なのだが、驚くと共にここぞとばかりに話をする私。名前を名乗ると、なんとその前に送った手紙で受験のことを書いてあったのを読んでくれていたらしく「受験はどうだった?」と聞いてくれたではないか。
まだ彼が「世界のサカモト」となる前の、ほのぼのとした時代の話である。

ほぼ時を同じくして、海外から火が点いたYMOの人気が盛り上がってきていた。
私がYMOのライヴを最初に観たのは、かなりイレギュラーな場であった。
小学館から発売された写真専門誌「写楽(しゃがくと読む)」の、創刊記念イベントが武道館で開催され、そこにYMOが出演することになった。応募ハガキを送って当たると無料ご招待というやつで、せっせと書いて送ったのが功を奏し、スタンド席の上の方であったが無事参加できた。
この時のことは様々なところで書かれているので、ご存知かもしれないが、簡単に言うと怒号が飛び交う滅茶苦茶なイベントであった。当時YMOのメンバーは、スネークマン・ショーというブラックジョークを駆使したコントユニットと親しくしていた。それをフューチャーしたコントが延々と続いたのだ。観客はもちろんYMOのライヴを期待してやってきている。彼らが試みたことはなかなか面白い内容ではあったのだが、観客には理解されなかった。確かに武道館でやることではなかったかもしれない。
退屈した観客が会場内に紙飛行機を飛ばし始め、野次や怒号が飛び交う。それに怒った坂本龍一が、ドレスを着て女装した姿のまま、その野次に対抗して「うるせーぞ、この野郎!」と怒鳴り返す。カオスであった。
最後はYMOのライヴもあったのだが、あまりにもその前が強烈だったので、音楽を聴いたという感覚は無いに等しい。

まともに彼らの音楽を聴いたのは、新宿厚生年金会館でのライヴだった。
実はこの時の舞台装置を設計したのは、最初に漫画家さんのお宅に一緒にいった友人の結婚相手なのである。その友人、20歳になった時に年上の建築家と駆け落ちをした。その相手がなぜか(本当にどういうわけか知らないのだが)、YMOの舞台装置を手掛けたというわけだ。不思議な縁である。
これも確か例の漫画家さんの紹介だったと思うが、YMOのファンクラブができる時から関わっていた関係で、武道館で行われた年末のライヴでは、ファンクラブの会長さんに頼まれて楽屋で雑用を手伝っていた。なにせ全盛期の頃である。ケータリングが非常に豪華だったのが印象的だった。
この時撮らせてもらったピンボケのりゅういっちゃんの写真は、いまでもどこかにあるだろう。

映画「戦場のメリークリスマス」の情報が流れた際には、イギリスからまず原作を取り寄せて読んだ。映画公開初日は、銀座の映画館に一番乗りして一番前で舞台挨拶を聞いた。「戦メリ」は劇場で7回観たと記憶している。
それだけ入れ込んでいたが、自分の人生も20代は激動の時代だったので少しずつ距離が離れて、遠くから世界に羽ばたいていく彼の活動を眩しく見ているだけになった。
YMOの「散開」ライヴには行かなかった。レーザーディスクも買ったのだが、観る気にはどうしてもならなかった。再結成の時も観ていない。
信州で暮らし始めてから一度だけ、まつもと市民芸術館でりゅういっちゃんのピアノコンサートを聴きに行ったことがある。終演後楽屋口で出待ちをして、クルマに乗り込む彼に手を振った。それが最後だ。

2023年3月28日、坂本龍一は71歳の生涯を終えた。
亡くなる直前まで音楽に関わり続けたという。
私の中では「世界のサカモト」ではなく、いまでも彼はりゅういっちゃんのままだ。


登場したアーティスト:Phew
→シングル「終曲(フィナーレ)/うらはら」発売記念のそのライヴの最後で、彼女が客席に投げたスコップは誰かに刺さらなかったのか、何十年経っても気になっている。
今回のBGM:「Avec Piano」by 坂本龍一
→思索社から発売されたカセットブック。「戦メリ」のあの音楽を彼がピアノで弾いたものだ。これを手がけたのは、雑誌「夜想」の編集長で当時ペヨトル工房を主催していた今野裕一氏である。

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