227回 下町物語


東京上野の出身だと話すと、「下町ですか、人情があっていいですね」などと返されることが多い。
その度にそうだろうかという疑問符が頭に浮かんでいたので、自分が生まれ育った昭和の後半の「下町」の印象を書き留めておこうと思う。

わかりやすく上野と書いたが、実際は上野と秋葉原の間にある「御徒町」に実家があった。
この御徒町という地名は難読漢字とされていて「おかちまち」と読む。江戸時代には御徒目付という下級武士が住んでいて、内職で傘貼りをしたり朝顔を育てたりしていたそうだ。
そのような由来のある地名だが、戦後の区画整理だかなんだかのせいで、「東上野1丁目」という味も素っ気もない住所になってしまった。住民にしてみれば前の地域のまとまりをそう簡単に変えるわけにはいかない。なので氏子である下谷神社の祭りで担ぐ神輿は、元の地名の御徒町3丁目「徒三町会」のものを踏襲した。
私の幼少時には既にこの地域でも過疎化が進んでいて、神輿の担ぎ手を集めるのに苦労していた。神輿といえば浅草の三社祭が有名だが、あれも地元の担ぎ手不足によりプロの担ぎ手(愛好家とも言う)に頼るようになっている。そうなると元々の掛け声である「ワッショイ、ワッショイ」ではなく、「セイヤ、セイヤ」というような、それまで聞いたことのない別の地域の掛け声に変わってしまうということが起こる。
時代によって諸々が変わっていくのは仕方ないが、ちょっと寂しい気もしないでもない。

ここであらためて「下町」とはなにかということを書いておこう。
東京を語る際に避けて通れないのが、この「下町」と「山の手」という地域区分の意識だ。東京は一見平坦な土地に見えるが、意外と小さな起伏に富んでいる。ざっくり言うと、山の手が高台であるのに対して、下町はそれより低い土地を指す。
江戸時代に江戸城の周囲には、大名と旗本が家柄に応じて居住した武家地が置かれていた。この武家地は、江戸城から西の麻布・麹町、北は本郷・小石川といった丘陵地に位置する。それに対して町人の商業地として存在したのが、東側の低地である日本橋・京橋・神田界隈だった。この武家地の跡が「山の手」であり、町人地の跡が「下町」であると言っていい。
「下町」という名称は、江戸城のお膝元「御城下」の町から由来するそうだ。それに対して「山の手」の語源ははっきりしないらしい。
江戸はいくら100万人都市といっても、せいぜい今の千代田区・中央区・港区程度の範囲だった。それが東京となってこの100年の間で格段に膨張した。明治時代の東京はせいぜい四谷辺りまでなのに対し、大正時代になると渋谷や新宿までとなり、昭和になっても戦前までは中野か目黒までだった。杉並や世田谷が東京の街として認識されるようになったのは、20世紀後半のことである。私の親の世代でも、その感覚にあった「東京」は山手線の内側とその周辺程度だったと思う。
高度経済成長期以降「東京」は拡大し、それに伴って「下町」と「山の手」の範囲も広がった。現在「下町」として一般の人がイメージするのは、浅草を中心とする地域だと思うが、上野・浅草辺りはそもそも「下町」としては二番手だったのである。

御徒町近辺は東京大空襲で焼け野原になったので、昔ながらの建物などは殆ど残っていなかった。なので私の子供時代の「下町」の印象は、ごくわずかなしもた屋以外は低層のビル街といった状況であった。
アスファルトの道路とコンクリートのビルに囲まれ、幾何学的に切り取られた空しか見たことがない。下町情緒もなにもあったものではない。また当時から御徒町は宝石の卸商街としての顔も持っていた。
クラスメートの親の職業が殆ど商家か職人という地域性、アメ横をすぐそばに控えた国際色豊かな(と言えば聞こえがいいが)繁華街の雑踏は、確実に私の人格形成に影響を及ぼしている。
多種多様な価値観が混在するそこは、確実にアジアだった。1980年に香港を訪れた際に「あ、上野だ」と妙に親近感を感じたものだ。
それと対極にあったのが、70年代の表参道である。友人宅を訪れた際に初めて足を踏み入れたそこは、今この歳に至るまでで最大のカルチャーショックを受けた場所であった。現在の人混みが目立つ表参道ではない。平日の昼間、歩いている人は殆どなく、ただどこまでも続くケヤキ並木を風が渡る音だけが聞こえてくる。表通りの洒落た店の裏には、静かな邸宅が並んでいて、騒がしい雑踏などどこにも存在しない。
考えてみれば表参道も「山の手」としては二番手なのだが、それでもあの時の衝撃が、私の中で決定的に「山の手」のイメージとして今も根付いている。

いまでは下町や山の手という区別をする認識自体、かなり曖昧になっていると思われる。人情などというものは、土地柄ではなく住んでいる住人に依るのだろう。
人も土地も変わりゆく。
失われたものを惜しむのではなく、変化をこそ楽しむ柔軟さを大切にしたい。


登場した神社:下谷神社
→古くは下谷稲荷社と呼ばれ、奈良時代に創建された都内で最も古い「お稲荷様」である。場所は何度か移動して今の位置になったようだが、神社に因んで周囲も稲荷町と呼ばれている。寛政10年(1798年)に境内で初めて寄席が行われたため、「寄席発祥の地」の石碑が建っている。
今回のBGM:「台東区の歌」 土岐義麿作詞・渡辺浦人作曲
→”鐘は上野か さくらに蓮に 文化の花もさき競う”から始まるこの歌、小学校歌より好きだった。出身小学校は過疎化に伴い現在は廃校になり、永寿総合病院が建っている。不思議な縁だが、私は移転前の永寿病院で生まれた。


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