282回 アブラハダブラ


1970年代はオカルトの時代だった。1973年には、『ノストラダムスの大予言』『恐怖新聞』『うしろの百太郎』が発行されている。これだけで何かむずむずするような時代の空気が伝わらないだろうか。

言わずと知れた『ノストラダムスの大予言』。著者の五島勉が晩年「人類滅亡の件は間違っていた」と言ったとか言わないとかだが、今更そんなことを言われても。
そもそもノストラダムスというのは16世紀フランスの医師・詩人・占星術師であった実在の人物で、彼の4行詩形式で書かれた『ミシェル・ノストラダムスの予言集』がこの本の元ネタとなっている。ただこの「予言」は非常に象徴的で曖昧でわかりにくく書かれているため、はっきり言ってどうとでもとれるものなのだ。当時からその解釈と的中したかどうかをめぐっての論争があったくらいで、直接日付や出来事が書かれているわけではない。
なので日本で出版された『ノストラダムスの大予言』という本は、それを元にした五島勉の創作物と言っても間違いではないのだ。ノストラダムス自身は「西暦◯年に◯が起こる」などとは書いていない。それを「1999年7の月、空から恐怖の大王が降ってくる」と、五島がはっきり具体的に記したことで、いきなり現実味が増して日本中が熱狂した。
今でも小学校の教室で同級生たちが夢中になって話し込んでいた様子を鮮明に覚えている。
因みに私は物心ついた時からリアリストなので、読んでいない。

その頃の小中学校では「コックリさん」も流行っていた。
放課後、主に女子生徒を中心として教室でこっそりやっていたようだが、催眠状態から戻って来れなくなっただのなんだのというトラブルがあり、学校では禁止された。
「コックリさん」は、1974年に超常現象研究家(凄い肩書きだ)の中岡俊哉が著した『狐狗狸さんの秘密』という本がベストセラーになったことで大流行した。紙に書いた文字盤と十円玉を使った占いの一種なのだが、数人が指を置いた十円玉が自然に動いて答えを綴るというので、夢中になる子も多かった。
くどいようだが私はリアリストなので興味はなかったが、一度だけどうしてもと誘われて嫌々加わったことがある。十円玉はそれなりに動いたけれども、こちらとしてはああ誰かが無意識に動かしているんだなくらいで、特に感慨はなかった。発起人の同級生が満足したようなのでよかったね、というくらいだ。こう書いてみるとなんと可愛げのない子供だったのだろうか。
この著者の中岡俊哉は、同年出版された『恐怖の心霊写真集』という本で心霊写真ブームを巻き起こすなど、オカルトブームの火付け役として大活躍した。

1973年には矢追純一のUFO番組も始まっている。1974年にはユリ・ゲラーによるスプーン曲げが爆発的な人気を博し、当時のTV番組ではあっちでもこっちでもスプーンを曲げていた。超能力が流行って、超能力少年少女がもてはやされた時代でもあった。
怪奇漫画(ホラーとはちょっと異なる)の『うしろの百太郎』『恐怖新聞』も大人気で、「オカルト」という言葉が一般的になったのもこの頃からである。
「S-Fマガジン」2代目編集長であった森優が、南山宏というペンネームで、ネス湖のネッシー、ピラミッドやマヤ文明の謎、UFOや宇宙人などを扱った本を次々と出版し始めたのも、70年代だ。南山宏はオカルトといえばこの雑誌、『ムー』の1979年創刊時からの顧問を務めている。

1973年は、小松左京の『日本沈没』が出版されて大ヒットした年だ。
もちろんこの作品はSFであってオカルトではない。しかしこれが大ヒットした背景には、1970年代に存在した漠然とした未来への不安のようなものがあったのではないかと考えられる。
科学万能主義で突き進んだ戦後の経済成長が、石油危機と公害により水をさされた70年代。冷戦下で、いつ何時核戦争が始まってもおかしくないという緊張感があったのも、あの時代である。
それまでの明るい未来一辺倒とは異なる漠然とした将来への不安が、科学では説明できない世界を扱った「オカルト」という分野に人々を向かわせたと言えるだろう。

ホラーとオカルトとは、似て非なるものである。
前回書いたように、ホラーは「恐怖」という感情をテーマにしているが、オカルトは「超常現象」という外部に存在するものが主体である。それが怖いかどうかは特に問われない。だからオカルトに於いて問題になるのは、あくまでも「本物なのか/本当に存在するのか」なのだ。
1980年代になると、映画『幻魔大戦』や漫画『ぼくの地球を守って』などの「前世ブーム」が起こり、もはや当然のこととして「前世」が語られるようになる。
1985年には「大殺界」が流行語となった細木数子の『運命を読む六星占術入門』が大ヒット、同年には霊能者を名乗る宜保愛子がTVを席巻した。これらは本物であることを前提にしていたが、皮肉なことに大槻義彦といったアンチオカルト主義者たちが批判すればするほど、かえって真実味を増していくのが不思議だった。
統一教会の霊感商法が問題になったり、幸福の科学やオウム真理教といった新興宗教が設立されたのも、この80年代である。

そしてこのオカルトの負の側面が帰結したのが、オウム真理教事件といっても良い。
1994年に松本サリン事件、1995年に地下鉄サリン事件が起こる。
あの事件で我々は、頭からオカルトに浸かって信じることの危うさを学んだはずだった。
1999年には恐怖の大王は降って来ず、2000年代に入るとオカルトはスピリチュアルに傾いていく。マヤ暦に書かれていたという2012年の人類滅亡も起こらなかった。
しかし令和になった今、世の中には陰謀論という新たなオカルトが蔓延っている。Qアノンにダークステート、爬虫類人やらイルミナティやら、百花繚乱だ。
インターネットという広大な海の前で、我々は膨大な情報がただただ流れていくのを目の当たりにしている。それらは本当かどうか誰にも担保されていない。情報は多くなればなるだけ信頼性が減少する。エントロピーの法則だ。そして数多のサイトのアルゴリズムのせいで、眼前に現れる情報は次第にある特定の分野に狭められていく。そうなるといつの間にか、世界はその限られた狭い偏った情報のみで成立しているような気にさせられてしまう。
情報過多のようでいて、実は自分が見ているのは囲い込まれた偏向した情報だけかもしれないのが、怖いところだ。

ノストラダムスもコックリさんも興味なかったが、ネッシーもUFOも心霊写真もそれなりに楽しんでいる。筋金入りのオカルト好きはかえってそれを信じていないと言われるが、ふんわりと楽しむくらいが丁度良いのだろう。
そのそも「オカルト occult」とは、「隠された知」を意味するラテン語の「occulta」に由来する言葉だそうだ。本来オカルトは「現象世界の背後に存在する本質と力を、直感的な類推によって把握する公理」と定義されているものなのである。

世界にはまだまだわからないことや不思議なことが沢山ある。常識とされてきたものが新しい知見によって覆されることなど、人類の歴史上ざらにあることだ。
科学もかつてはキリスト教的な世界観からすればオカルトだった。
オカルトとは「知の探求」であるという本質を胸に、跳梁跋扈する怪しい情報に惑わされず、本質を見極めていきたいと思う。


登場した漫画:怪奇漫画
→古賀新一の『エコエコアザラク』が好きでしたね。佐藤嗣麻子監督が映画化した作品も良き。第2作『エコエコアザラクⅡ THE BIRTH OF THE WIZARD』のアクションも格好良かったが、第1作『エコエコアザラク WIZARD OF DARKNESS』で怪演した若き菅野美穂の存在感たるや。
今回のBGM:映画『幻魔大戦』オリジナル・サウンドトラック
→なんとキーボードは、かのELPのキース・エマーソンですよ!

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