第64回 きよしこの夜


子供の頃からリアリストだったので、サンタクロースを信じたことがなかった。
私が幼少期を過ごした昭和40年頃から、サンタクロースという存在が日本の子供たちの間にも膾炙してきたと思われるが、クリスマスプレゼントは親から直接渡された。両親も特にサンタクロースの存在を偽装することなく、淡々としていたと記憶している。
一度だけクリスマスの朝に枕元に置いてあったことがあるが、こちらもああ両親がくれたのだなと何の疑問の余地もなく受け入れていた。のちに尋ねたら、もしかしたらサンタさんを信じているかもしれないから試しに置いてみただけというような、身も蓋もない返答がかえってきた。思えば随分と夢のない話だが、実際私自身全く信じていなかったのだから問題はなかった。

これには通っていた幼稚園が寺の付属だったことも大いに関係したと思われる。寺というからには、年中行事も必然的に仏教関係になる。一年で一番大きな行事は4月8日の御釈迦様の誕生日、花祭りだ。当然寺の幼稚園にクリスマスは存在しない。家ではクリスマスケーキを買ってきたりツリーを飾ったりはしていたが、そういうわけで幼稚園の友達との間では、サンタクロースの存在について論争が起こることはなかったのだ。
小学校に上がっても、表立ってサンタクロースについて話が出ることはなかったと思う。同級生たちが、学校でそういう話をすることを子供ながらに恥ずかしいと思ったのかはわからないが。

クリスチャンでもないのにクリスマスを祝うなんてという苦言は、いまはもうほぼ聞かれることはなくなった。ハロウィンでさえ日本の年中行事に組み込まれている昨今、クリスマスは立派に由緒正しい日本の行事となったのだ。そもそもクリスマスというもの自体、キリスト教以前の土着の風習、太陽の復活を祝うお祭りだったわけなので、まあ冬至の行事だと思えばいいのだ。それにクリスマスほどわかりやすく楽しいアイテムが豊富な行事は他にないのではないか。お正月にしろなんにしろ、その地方特有のものが多いため誰がみてもわかるようなアイコンは少ない。門松やお供えの餅といってもあまり可愛いものではない。
それに比べてクリスマスはどうだ。まず赤と緑といえばクリスマスだ。もみの木の外観を模した、三角形に棒が刺さっているような形だけでもうクリスマス。トナカイだってどの季節だっているだろうに、クリスマスの時期だけ大手を振って現れる。サンタクロースがいようがいまいが、赤と白の組み合わせの服はサンタクロースになる。ケーキも通年食べられるにもかかわらず、なぜかクリスマスケーキだけは特別だ。12月が近づくと巷にあふれる趣向を凝らしたクリスマスケーキの写真を見ると、予約をしなければならないような焦燥感にかられる。
店のディスプレイも、11月になった途端にハロウィンからクリスマスに変わる。実際欧米のクリスマス・シーズンというのは、新年になってからも続くのだが、日本のクリスマスは25日までと決まっているかのようで、26日になるといきなり正月を迎える準備になってしまう。せっかく苦労して飾りつけたツリーを片付けてしまうのが惜しくて、いつも松の内くらいまで飾ってある。リアリストのくせにそれくらいクリスマスが大好きだ。11月から我が家ではクリスマスソングを周期的に流して気分を上げているくらい好き。

ツリーを飾ったり、クリスマスにちなんだ小物を集めたり、なんとなくふわふわした襟の服を着てみたり、そういった他愛もないちまちましたことを楽しめることが、少女性というものの特徴のひとつではないかと思っている。
即物的な現実にさり気ない可愛げを忍び込ませること。
日常の中に自分だけの特別を持つこと。
それにはクリスマスはもってこいの機会だ。
とりあえずサンタクロースの存在は横に置いて、季節の贈り物にひたってみよう。
Merry Christmas!


登場したアイテム:クリスマスツリー
→クリスマスツリーの天敵は猫である。試しに「クリスマスツリーvs猫」を検索してみてほしい。悲惨な動画が山ほど出てくるから。
今回のBGM:「Christmas in the Heart」by Bob Dylan
→ボブ・ディランがクリスマスソングを歌っていることは、日本ではあまり知られていない。実に楽しそうにあのダミ声で誰もが知っている定番の歌を歌っているディランは、なかなかお茶目だ。

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