236回 医師にご相談ください


初対面の自己紹介で職業を名乗ることはままあるが、「医師です」と言うと、間髪を入れず健康相談をしてくる人が多いのはどうしたものか。
何科ですか?と聞かれて「精神科です」と答えようものなら、いきなり心の闇を打ち明けられることもある。私はここで初めてあなたと会って話しているのですがと戸惑うことしきり。
かくも人々は、医師に対して無防備だ。

「研修医なな子」という漫画があった。テレビドラマにもなったから、ご存じの方もいるだろう。
1994年から1999年まで連載されて、単行本7巻で50万部を超えるというヒット作だ。作者の森本梢子氏の姉が医師だそうで、その姉が勤務する熊本大学医学部附属病院に取材をしたとのこと。医療漫画としてもコメディ漫画としても、とても面白い。
漫画が発売された当時私は丁度医学部生だったので、リアリティのある描写に大変共感したものである。
その中で主人公のなな子が合コンに対して苦言を呈す場面がある。合コンに参加しても自分が医師だと言った途端、それまで良い感じだった男子にいきなり「この頃おしっこが出にくくて」とか雰囲気をぶち壊す相談をされてしまい嫌になるというのだ。

これは私にも大変よくわかる。どうして医師だとわかると急に体裁をかなぐり捨てるのか、不思議で仕方ない。
医師になったばかりの頃、毎週アルバイトに行っていた内科医院の常連患者さんに、デパートの売り場でばったり会ったことがある。挨拶もそこそこに「それで先生、このところ便が出にくくてね」といきなり言われたのには驚いた。周囲に人がいるところであまりこういう話題もと思って口を濁すと、こちらがはっきりしないのに業を煮やしたか、何度も「便が、便が」と言われて、さすがにこちらが恥ずかしくなりほうほうの体で逃げ出した。
体調や病気の話題は、究極のプライバシーである。それを相手が医師だとみると、呆気なく暴露してくる心理は謎だ。もちろん診察室ではなるべく詳しく病状を話してほしいが、顔見知り程度であれ初対面であれ、排尿や排便に関して公共空間であけすけにいきなり相談するのは、どうかと思う。
親しい人なら、私でわかることの範囲でいくらでも個人的に相談にのる。医師には守秘義務があるので、もちろん秘密は守る。
なのでどうか道で会った時にいきなり便秘の相談をするのは、思いとどまってほしい。

医師であると、時に必要とされる場面に遭遇することがある。
突然倒れた人に心臓マッサージやAEDをするとかをイメージされると思うが、意外とこれまでそういうことには出会っていない。いや、あったのだが必要とされなかったのだ。
大規模なパーティー会場で倒れた人がいて、お約束の「お医者様はいらっしゃいませんか?」コールがあったため、声をかけた方がいいかなと「あの、医者ですが・・」とおずおずと言ったのだが、その時の私の格好がかなり派手で突飛な衣装であったためか、相手にしてもらえず、そのまますぐにストレッチャーで運ばれていってしまった。ちょっと寂しい。
ライヴ会場では、興奮して過呼吸になったお客さんを外に連れ出して救護したことが何回かある。また会場内で転んで前額部を切り、流血の事態になってパニックになっているお客さんを助けたこともあった。まずロビーに誘導し、おろおろする会場スタッフに指示して手当を施し、休日救急対応している病院を調べてもらってタクシーで送り届けた。
いずれも私自身は観客として参加していたライヴなので、手当てしている間のステージは観ることができず、先ほどとは別の意味でちょっと寂しかったが、スタッフにはとても感謝されたのでよしとしよう。

ドラマではよく列車や飛行機内で急病人が出て、例の「お医者様はいらっしゃいませんか?」がコールされる場面が出てくる。
列車なら、状態を診ながら車掌に連絡し、最寄りの駅で降ろして駅員にバトンタッチできる。そもそも列車ではそういうコールはなく、医師を呼ぶ前に、停車した駅ですぐ救急搬送されるだろう。
これが飛行機となると、すぐにどこかに降ろしてもらうわけにはいかず、また飛行機内に置いてある診察器具などたいしたものではないため、急を要する事態なのか様子をみればよいのか、非常に判断に迷うことになる。飛行機を緊急着陸させるとなると大変なことなので、その判断を任されるのは重荷であるが、一方では人の命もかかっている。
簡単に「医師です」と名乗り出るわけにはいかないということも、理解してほしい。以前医師が集まる掲示板でもその話題が出て、名乗り出るか否かというテーマにも、自信がない、いや職業意識としては出るべきだなどなど、様々な意見が飛び交った。
どちらもわかるのだが、医師とひとくちに言っても、その科によってできることは限られてくる。普段救急医療に携わっている医師なら、そういう場でも適切な指示が出せると思うが、それでも検査機器も何もない状況下ではできることは限られるだろう。大変難しいところなのだ。

「先生と よばれるほどの ばかでなし」という諺がある。
医師であることを驕ってはいけないという自戒と同時に、信頼してくれる患者の期待に応えなければという責任も痛感する。
自分にできることはしてあげたいと思うが、何度も書くが道で便秘の相談はあまりしないようにしていただけるとありがたい。


登場した医療機器:AED
→俗に電気ショックと言われる救命装置。正式には「自動体外式除細動器 automated external defibrillator」という。公共空間や大規模店には常備してあるが、一度は講習会で使用方法を体験しておいてほしい。医師でなくても、AEDで救える命は沢山あるのだ。
今回のBGM:「ねこのお医者さん」by ケロポンズ
→「ニャーッ!!」と気合を入れたら病気が治せるって、いいなあ。


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