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どこかに行きたいと思う時。

「書を捨てよ、町へ出よう」
そんな本があっただろうか。

あー、どっか行きたいなー。そう思う瞬間は、まるで渡り鳥や遡上する鮭のように定期的にやってくる。

でもそれは、もう、いっそどこかに行ってしまいたいなーということではない。純粋に、どっか行ってみようかなーという心持ち。この違いは、お分かりいただけるだろうか?

どこかって、どこに? そう聞かれると、とても困る。どこでもいいから、どこかに行きたい。トクベツな場所じゃなくてもいい。でも、どうせ行くなら、少しだけでも非日常を感じる場所がいい。

例えば、
今の季節なら、森の小径を歩きながらホーホケキョと鳴ききれないウグイスの練習曲を聴くのもいいし、遠くの山々のだいぶ溶けた雪のわずかな残りに目を凝らしながら深呼吸したりするのもいい。ちょっと雨が降った日に、木から落ちる雨が傘をパタタタッと叩く音を聞いてぬかるんだ地面を踏むのもいいだろう。

この場所を離れて、どこか別の空間に行きたいと無性に思う瞬間。そしてそういう時は、非日常であっても自然と溶けあえるような場所がよくて、あれやこれやメルヘンな情景を思い浮かべてしまう。


在宅で働いている。
だから、ほぼ毎日家にいる。買い物はネットがある。月に1回の通院と2ヶ月に1回の美容院を除いて、出かける理由は特にない。別に、監禁されているわけでもないし、外出禁止!と言われているわけでもない。丈夫な脚もあるし、手軽な車もあるし、しばらく乗ってはいないけれど空気を入れたら乗れる自転車もある。

行こうと思えばどこへでも行ける。でも、なぜかなかなか外出する気にならない自分がいる。社会的ひきこもり、その言葉を聞いた時は言い得て妙だと思った。ひきこもりたいというよりもむしろ、どこかに行きたいとあれこれ想像して楽しんでいるのに、どこに行くのか決めきれない自分がいるのだ。

なぜだろう?
出不精というのはある。日々の想像の中で思い浮かべるのは、理想のおでかけ先であって実在する場所ではない。そんなおでかけ先がどこにあるのかもわからない。インスタでハッシュタグ検索でもすれば、その場所が出てくるのかもしれないが、映えを狙って色付けされた情報はいらない。 

もしかすると、家から出て数百メートル歩いただけで、行きたい場所に辿り着くかもしれない。けれど、車を走らせても電車に乗っても、永遠に辿り着くことはできないかもしれない。そう言い訳しながら今日も机に向かい、あれこれ思いを馳せて満足してしまうのだと思う。

でも、実際にその場所に行かなければ感じられない非日常もある。それは十分わかっている。出かけさえすれば、心も動かされることもわかっている。


昔、「空を見上げることができていれば、自分は大丈夫と思える」
そう言った先輩がいた。

田舎で暮らすジブンにとっては、空なんて見上げればそこにあるのが当たり前。おかしなこと言うなーと思っていた。だって、空を見上げない日なんてなかったから。

だけど、都会は違った。
街を歩いていて、ふと見上げても空が見えないのだ。煌めくビルとビルの間に除く空には星なんて見えない。案外これが、窮屈さを醸し出してきて、ボディーブローのように効いてくる。うまく息ができない、そう思って田舎に戻った。

今住んでいる家は、バルコニーに出れば一面空だ。
だからポワポワした小春日和にうつらうつらしたり、日々変わるマジックアワーの色合いや、星座の移動だって、たった一枚のガラスの向こう側に行けばある。田舎、ブラボー。

見上げたくても見上げることができない空と、お出かけしたくてもお出かけできない私の日常は、どことなく似ているかもしれない。
ほとんど外出しない最近、ようやく先輩の言葉が少しだけわかった気がした。そして、このままじゃいけないような気がした。

捨てるほどの書もないし、出かけたい町もないけれど、どこかに行きたいなーと思い立った時には、考える前に出かけてみよう。灼熱の夏が来る前に、少しずつ心がけてみよう。春分の日、そう思った。

最後までお読みいただきありがとうございます♡


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