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地球に留学してるみたい

ジムへ向かう時のことだ。
近所にある公共の自転車置き場に行ったら、自転車が何台も倒れていた。私の自転車は倒れてなかったんだけど、まあ風も吹く気配がないので直しておこうか。
一台、二台、三台と起こしていった。すると、一台目の自転車がまた倒れた。何かが散らばった。

ベルだ…。

善意でしたことが、反対の事態になってしまった。でもその自転車は、元々バランスが取れず自立できないようだった。私のせいでベルは壊れたけど、自転車が倒れていたのは私のせいじゃない。
「ベルの弁償します。連絡ください」そんな風にメモを残そうかと思ったけど、公共の場で電話番号を晒すのも危険だ。私は結局、また倒れた自転車を、そのままにして去った。

自転車の持ち主の方、ごめんなさい。でもあなたの自転車、前カゴが重いのかなんだかバランス取れてなかったよ。



私は「私を正しいと思うことでしか、私を救えない」と思っているところがある。
自分が置かれている環境が、状況が辛いものだと思っていると余計に辛くなる。自分の生まれ持った個性の一部が嫌いでも「私はそう育てられてきたんだから仕方ないよね」って自分を守って心の中で親を批判したりする。

ずっとそうだ。本当はデザインの仕事をしてみたい。職人にいずれはなりたい。その前に共に切磋琢磨し合える仕事仲間が欲しい。でも家族が続けてきた家業を助けて欲しいと言われて手を差し伸べるほかなかった。でも本当は今すぐに家のしがらみから解放されたい。でもそんなことをしたら家族との関係が悪化する。だから不満を持ったまま今もここで仕事をしている。
だから、私は仕方ないんだ。


正欲を読んで、そんな当たり前に心の中に存在するようになった「不貞腐れ」「私的正論」にぶち当たった。

「そうやって不幸でいるほうが、楽なんだよ」
「選択肢がなければ悩まなくていい。努力だってしなくていいし、ずっとそうやって自分が一番かわいそうなんだって嘆くだけでいい。そうしてるほうが実は、何も考えないでいられる。向き合うべきものに向き合わないでいられる」

p.449より

八重子の言っていることがグサッ。私は不幸だって思っていれば、ずっと人のせいにしてれば何も考えないでいられるけど、心はずっと憂鬱で希望的じゃない。
実はこう言われるのを、向き合ってくれるのを、待っていた気がする。誰かが指摘してくれないかなと期待していたんだと思う。

「欲」は、必ず「〇〇したい」というものであって「〇〇したくない」という欲はない。それは欲の裏返しのようなもので、否定的な欲の根底には「本当は〇〇したい」という希望を持っている。
私にも、本当は「したい」欲がある。その欲を現実にするかしないかは別として、その欲があっても良いと受け入れることが重要なのだ。

でも受け入れたらどうすれば良いのか?制御できないほどの欲の発散はどこに飛ばせば良いのか?朝井リョウの書く「繋がり」があればどうにかなるのか?
そんなことは分からない。

でも私は、こうやって友人や家族には言えないHSP気質の悩みとかPMSのこととか、暮らしに対する感受性の表現とかをここに書いてる。
私はnoteで「繋がり」に期待している。待っている。望んでいる。


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