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ハンガリー・プロムジカ女声合唱団指揮者サボー・デーネシュ先生のインタビュー記事

去年の11月末にハンガリーの全国紙であるマジャル・ネムゼト紙(Magyar Nezmet)に「現在ではコダーイ・メソッドが全く使われなくなった」というタイトルと共にハンガリー国内でも国際的にも非常に有名なカンテムス合唱団、プロムジカ女声合唱団の指揮者であるサボー・デーネシュ先生のインタビュー記事が掲載されました。
 
プロムジカ女声合唱団は、私が「なんでハンガリー語を始めたの?」と質問された時に返す理由となっている合唱団です(高校生の時にこの合唱団の演奏を聞いたことがきっかけで、ハンガリー語を勉強しようと思った)。日本でも有名となった音楽教育法であるコダーイ・メソッドがなくなりつつある、というショッキングな煽りとは裏腹にハンガリーの合唱、サボー先生の生い立ち、運命のようなこれまでを俯瞰したとても良い記事でした。早く翻訳して合唱関係者が読んでくれたら、と思ったのですが、なかなか時間がとれず、年が明けてしまいました。。
 
意訳で、すっ飛ばしている部分もあるのですが、一人でも多くの人の目に止まって貰えば幸いです。
 
↓元記事
https://mno.hu/…/ma-mar-alig-hasznaljuk-kodaly-modszeret-24…#
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−この数十年、ハンガリーの合唱団が優勝しない国際合唱コンクールはなかったように思われますが、一方でハンガリー国内の合唱団の活躍を耳にする機会が大きく減っています。
サボー・デーネシュ先生(以下「サ」):『「合唱青年運動」(Éneklő Ifjúság Mozgalom)は二つの大戦間期に結成され、コダーイ・ゾルターン(KODÁLY Zoltán)の他、バールドシュ・ラヨシュ(BÁRDOS Lajos)、アーダーム・イェネー(ÁDÁM Jenő)、ケレーニ・ジュルジ(KERÉNYI György)、ライェツキ・ベンヤーミン(RAJECZKY Benjámin)らのおかげで短期間のうちに非常に成功を収めました。ケチケメート市には1950年代初頭に初めてのコダーイ・メソッドを応用した音楽小学校が設立され、その後設立される音楽小学校のモデルとなりました。当時のハンガリー国内の合唱団は世界の中でも優れていましたが、残念ながらその後大きな変化がありました。体制転換後、マジャル・バーリント(MAGYAR Bálint)教育大臣の構想に基づき音楽教育に特化した学校は徐々にハンガリーの教育制度から排除され、その代わりコンセプトの定まらない芸術小学校が設立されました。現在では一貫したコダーイ・メソッドを用いる教育機関はほとんどありません。私たちが教えるコダーイ・ゾルターン小学校も閉校の危機にさらされましたが、賢明な自治体の判断によってなんとか存続しています。』
 
−ニーレジハーザ市における音楽教育については体制転換よりももっと前から歴史があります。
サ:1950年代には、ケチケメート市の後、ドゥナパタイ市、セーケシュフェヘールヴァール市、コムロー市、そしてブダペストに音楽小学校が設立され、1958年にはニーレジハーザ市にも設立されました。当時は国家による義務教育の範疇で子供たちに質の高い指導を行う機会がほとんどなかったため、多くの知識階級が自分の子供達を音楽小学校に通わせたことは納得できます。その後、党委員会はバランスを取るために、労働階級の子供も音楽学校に通わせるよう定めました。
 
−出自といえば、例えばあなたは改革派教会の牧師の息子として、完全に監視の対象となっていました。
サ:私の父は体制の敵とみなされ、党秘書であった小学校の校長は、私が高校に通うことを認めてくれませんでした。それでも父は私の故郷であるマコー市において、私を地元の高校に通わせてくれることができるほどの影響力を持っていましたが、その後、私の二人の姉の大学に進学が許可されなかったため、両親は私をセゲド市の音楽専門の高等学校に転校させました。両親はイデオロギーが及ばない環境に行けば、出自による問題は無くなるだろうと期待していたのです。
 
−あなたもいつかは音楽の道に進むことを望んでいたのですか?
サ:小さい頃、知り合いのおじさんが大きくなったら何になりたいかと尋ね、私は農家になりたいと答えました。もちろん笑われましたよ。私は決定付けられた運命のようなものを信じています。私の人生において、計画した行動は全くなく、いつも運命が私を導いていたのです。当時の制約により、私は音楽専門高等学校に進むこととなり、また音楽教師になったのも自らの意思によるものではありませんでした。私は高校卒業後、セゲド市の管楽器科への進学を予定していましたが、ちょうどその年、管楽器のコースが休止となってしまいました。そのため、リスト・フェレンツ音楽大学のミシュコルツ校に進学することになったのです。大学では主専攻の管楽器に加え、音楽教育とソルフェーズを副専攻として修めなければなりませんでした。大学卒業後、シャーロシュパタク市の管楽器の講師になることになりましたが、ある友人が電話をくれ、ニーレジハーザ市には教師の枠が2枠あるから、そちらに行くべきだと言いました。私の妻もまた管楽器奏者だったのです。ニーレジハーザ市に到着した時には、どちらの枠もすでに埋まっており、そうして当時の第4音楽小学校、現在のコダーイ・ゾルターン小学校で、妻はソルフェーズを、私は歌唱担当の教師となったのです。それからもうすでに48年が経ちます。
 
−コダーイ・ゾルターン小学校ではすでに昔からコダーイ・メソッドに基づいて教育が行われています。今日では多くの人が何がコダーイ・メソッドの本質かを知らないと思うのですが…
サ:コダーイ・メソッドは体と心の調和の発達に基づいているシステムです。幼少期から音楽に関わっていると人間の脳は異なる発達をします。多くの脳科学者が、多くの芸術、とりわけ音楽に触れている子供は将来的に語彙の獲得が容易になることを認めています。また、コダーイ・メソッドは社会平等にも寄与します。すべての人が絶対音感を持っているわけではありませんが、「移動ド」の教育法は少なくとも音楽能力の高い子供が音楽の本質を理解するのに最適となっています。すべての子供が合唱に参加することがコダーイ・メソッドの基本原理です。コダーイ小学校に入学した人にとって、歌うことは人生の一部となります。
 
−なぜカンテムスという名前を合唱団につけたのですか?
サ:当時、私たちが参加したフィンランドの合唱コンクールの司会者が、どうしても「ニーレジハーザ市第4小学校少年少女合唱団」と発音することができず、かわいそうに舞台袖で何回も練習をしていました。多くの人たちがどこでも理解できるような合唱団名をつけるべきだとアドバイスくれました。作曲家のバールドシュ・ラヨシュ (BÁRDOS LAJOS) 先生は1978年にデブレツェンで行われた合唱コンクールのために「カンテムス(Cantemus / 歌え!)」という作品を創作してくれましたが、私たちはこれ以上合唱団にふさわしい名前はないと考えたのです。
 
−カンテムス・ファミリーは多くの賞を勝ち取っており、合唱オリンピックでも優勝しています。最も印象に残っているのはどの出来事ですか?
サ:1970年代末、少年少女合唱団の結成の数年後、デブレツェン市で行われたバルトーク・ベーラ国際合唱コンクールで2位になりました。それまで全く知られていなかったカンテムスは数ポイントの差で優勝を逃しました。この結果により、カンテムスは世界的に知られることとなり、初めて海外のコンクールへの招待を受けました。多くの国際コンクールでの優勝の中でも、最も印象的だったのは韓国の釜山で行われた合唱オリンピックで、100以上の合唱団体が参加した中で4つの賞を受賞しました。さらにその日はちょうど10月23日でした。4回も表彰台の一番高い部分に上り、4回もハンガリーの国歌が流れたのです。つい最近数えてみたのですが、過去四半世紀の中でカンテムス・ファミリーは50回以上の一位や特賞を獲得しています。
 
−カンテムス・ファミリーは昨年ユネスコ無形文化遺産に指定され、今年はフンガリクム(Hungaricum)となったコダーイ・メソッドによって大きな成功を収めています。一方で、コダーイ・メソッドの中身については忘れ去られつつあるのは何が原因だと思いますか?
サ:一つは、コダーイ・メソッドがコミュニティを作り上げるのに対し、今日の思想が個人主義的であることです。だからこそ時代遅れとなっています。さらに、コダーイ・メソッドからはビジネスが生まれないということも問題であると考えています。合唱においては無料の楽器である自らの喉を利用しますし、手でソルミゼーションのサインを、5本指で音程を示すこともできます。これでは何もお金が生まれないし、商品もなければ、何かを買うこともありません。ビジネスの世界では利益がなければ、何をすべきかわかりません。国外では現在でもコダーイ・メソッドが驚きを持って受け止められている一方で、ハンガリーではなぜこんなにも素晴らしい価値が消滅の危機に晒されているのか疑問に思われています。
 
−かつて、あなたは、合唱界は国際的にもレベルが落ちつつあると述べていましたが、これはハンガリーだけの問題ではないということでしょうか。
サ:現在、合唱運動自体が弱くなりつつあり、プロの合唱団も凌駕するような高いレベルのアマチュアの合唱団がなくなりつつあります。そして合唱曲のレベルも低くなりつつあるようにも感じます。国際的な合唱のトレンドは世界の変化に適応しようとし、一見華やかではあるけれど中身はあまりない作品が増えています。芸術という名目でただ舞台上で叫んでいるようなショッキングな演奏を見かけることもあります。これらの作品は、コダーイの言葉を借りるならば、芸術という宮殿の足元にも及んでいません。そして残念ながら現在はすぐれた合唱団でも非常に質の低い作品を歌っているのを耳にします。
 
−あなたはこれまでもたくさん受賞してきましたが、2017年は特に名のある賞を受賞しました。日本からも叙勲を受け、カンテムス合唱団は芸術宮殿(MÜPA)の最優秀グループにも選出されました。驚くことにあなたはすでにもう70歳です。
サ:数々の受賞には私だけでなく、周りの人々も喜んでくれました。もちろん賞のために働いてきたわけではありませんが、ようやく以前頂いた賞にふさわしくなってきたと思います。すべての受賞は色褪せないコダーイ・メソッドと尽きることのない歌う喜びの中にある私の使命と信念を強くすることができます。最後にバールドシュ・ラヨシュの合唱曲を引用しましょう「ただ歌え!歌うことは良いことである、喜びである。歌によって鼓動する!」

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