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肺皿



その雨は、まるで鉄格子。
彼女は換気扇の下でタバコに口をつける。すっと整った顔立ちに、ひっきりなしに黒い粒のような影が伝う。そんな様子を僕は台所に腰掛けて眺めていた。
彼女の目は、脇に置かれたドロイドの箱の目と同じで、鋭く、美しい。
ふと彼女と目が合い、慌てて目線を下げていく。華奢な身体に控えめな胸。折れてしまいそうなウェストから、艶かしく白い足が伸びる。


・・・


買い物、行こうよ。車出すから。

まだ。吸い終わったらね。

もう何本目だよ。

まだ一箱だよ。

吸いすぎだっての。


・・・


灰皿の上でぐしゃぐしゃになったものを缶に流し込む。気づいて掃除をするのはいつも僕だ。
タバコは嫌いだ。煙たい。臭い。身体に悪い。
こんなもの、肺を黒くするだけだろう。
こんなに近くにいるのに、僕達の間にはからっぽがあって、そこに流れ込む煙は彼女の輪郭をぼやかせる。


・・・


タバコ吸い始めてから、リスカ辞めたんだ。
あたしは、自分で自分を傷つけないと生きていけない。
タバコだって、お酒だって同じ。みんな、ふとした時に手を伸ばすのは自分を傷つけるものなんだよ。


・・・


失敗してしまった時、思わず自らの腕を握りしめる。食い込んだ爪の痕を見るたび、先程まで沸々と煮えていた吐き気が少し引き、酸素を取り込むスペースができるような気がするのだ。

人は常に、誰かを傷つけたいと思っている。暴力や戦いというものが、道端の石ころがそのサイズになるより遥か昔から人類に刻まれた本能だからだ。
今は、『他人を傷つけてはいけない』というモラルがかろうじて“平和な”世界を平和たらしめている。

ならば、自分を傷つけるしかない。

酒やタバコが自分を傷つけるものだとわかっていても、やめることはできない。
酒やタバコだけじゃない。
わざわざ自分を口汚く罵って自ら自己嫌悪の沼に潜り込むのが好きな人のどれだけ多いことか。
落ちるところまで落ち、傷つくところまで傷つき、波が引いていくことでようやく肺に空間ができることを知っているからだ。
情けない、どうしようもない、大嫌いな自分は深く傷ついてからでないと呼吸すら許されない気がするからだ。

全て、あの子の言った通りだ。


・・・


あたしはね、馬鹿で、頭悪くて、どうしようもないんだ。
だからね、不安なんだ。
仕事してても、ゲームしてても、誰かと遊んでても、セックスしてても。
おまえはそんなことしてちゃダメだーって、聴こえてくる気がするんだよ。
誰に、何を許してほしいんだろうね、あたし。


・・・


灰皿はいつも彼女の苦悩で満杯だった。
僕がいつもしかめ面で片付けていたものは、彼女のメッセージだったのかもしれない。
あんなに近くにいたのに、僕達の間にはからっぽがあって、煙のせいにして僕は彼女をよく見ていなかった。煙が晴れた後の表情しか知らなかった。
煙ははらうべきだった。怯まず彼女と目を合わせるべきだった。華奢な身体が折れてしまうぐらいに抱きしめるべきだった。

“大丈夫”

たった一言添えるだけでよかったのに。


・・・


窓際、台所、換気扇
今日もあの日と同じ、外には雨の鉄格子。
彼女が忘れていったドロイドに火をつける。
僕の肺は初めて見る灰色に驚き、身体から排除しようと腹の奥から全てを押し出そうとする。
それでも吸い続けた。灰皿を埋めたら、彼女と同じ景色が見られると思った。
段々頭がぼーっとするような、靄がかかっていくような感覚になる。
一箱吸い終えるころには僕はぼろぼろになりながら、同時に気持ち良くもあった。
影ではない、本当の涙を流しながら。


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