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書き手から読み手へ。今、改めて考えたい「本が届く」ということ

 街の本屋も閉まり、いよいよAmazonでも入手しづらいことが多くなってきた。図書館も閉まっているので、編集者としては資料が手に入らないのが痛いところだし、出版社としてはつくっても届ける手段はなくなっていくことを意味するので、まさに危機的状況。そんななか、さまざまな取り組みが動いている。書店さんが次々とオンラインショップを立ち上げたり、そうした書店さんを紹介する版元や編集者が現れたりといった動きには、本当に頭が下がる(里山社さんナナロク社さんのnote参照)。今後は、自らネットで本を販売しはじめる出版社も出てくると思う。社会的意義や届け方を考えれば、ライツ社さんが『全196ヵ国おうちで作れる世界のレシピ』をnoteで全文公開し、かつクラウドファンディングで本を届けることに挑戦されていることは、尊敬でしかない。

 翻って、自分にできることは何なのか、と強く考えさせられている。先週は、考えすぎて気づいたら明け方という日が何日かあった。

 外を出歩けない、お店を開けないなかで、オンラインで売ろうとしている動きが増えていくのは当然だ。出版社としては、せっかく著者が精魂込めて書き上げたものを読者に届けたいという気持ちになるのは自然だし、その試みをもし会社としてすぐに実行できるなら素晴らしいことだと思う。また、書店であればそうした著者の思いがつまった1冊を、もしくは古書店であれば誰かが大切にしていた1冊を、求めている人に届けたいと思うのは当たり前だし、素晴らしいと思う。でも、そのとき絶対にしてはならないと個人的に思うことがある。送料を無料にすることだ。

 昨日、ミシマ社の三島さんと、恵文社一乗寺店の鎌田さんとのオンラインイベント「一冊!宣言」を視聴したが、図らずも送料についての議論があった。書店と版元と読者が共存共栄するためには、薄利多売で成り立っていた頃の常識をまっさらにすべきだと。Amazonに負けじと書店が送料を負担することで、利幅をさらに落とし、書店が立ちゆかなくなるのだとすれば、それはそもそもの前提がおかしいはず、というのは納得のいく話だ。3者が共存するためのプラットフォーム「一冊!取引所」を立ち上げようとシステム会社まで立ち上げた三島さんには、心の底から共感しているし、応援させていただければと思っている。

 ただ、そもそも「ものを送る」ことが無料だというほうが異常なのではないだろうか。著者が魂を込めて書き上げたものがもし望む読者に届いたとしても、書き手から読み手まで届ける、物流を担ってくれている方への敬意なくして、果たして本当に「本を届けた」と言えるのだろうか。出版業界が苦境に立たされている理由のひとつは、物流の軽視というものがある気がしてならない。実際、そこも含めた改善のためにBooksPROが立ち上がっているわけなので、たとえ出版社であろうが書店であろうが、オンラインで本を売るのであれば、やはり送料は買い手からしっかりと受け取るべきだと思う。自分で本を送ってみればわかるとおり、サイズからすると重量がある書籍は、送料がけっこう高いことがわかる。届けてくれることも含めて、ものを買うという行為を捉えないかぎり、ものを作る側とそれを売る側、そしてそれを消費する側の共存共栄は成り立たない。

 自分自身、①『共感資本社会を生きる』という本を担当する過程で、生産者と消費者(生活者)がつながることの価値を知り、取材のため訪れた秋田県の農家の方と関係性が生まれたこと、②個人的に続けている書店訪問を目的とした旅でさまざまな書店さんと出会えたこと、の2点により、ここ数年でものを買うという行為の質が変容したのを実感している。作ってくれる人の顔が見えること。それを売っている人の顔が見えること。「あの人から買いたい」「あのお店で買いたい」。そんな気持ちが加速している。

 蛇足ながら最後に。この情勢下で、ものを届けるという仕事につく方々がさらされているリスクを思えば、無料と思われているものを届けているというのと、届けることの対価を認められているとわかって届けるのとでは、違うのではと思うが、どうだろう。実際に先日、いつか行ってみたいと思っている福岡の書店さんから、ネットで本を買ってみた。今日、警報が出るほどの大雨のなか届けられた美しい1冊(そして添えられた手書きの添え状)を見ていると、届けてくれたへの対価を自分が支払ったということに、少しほっとして、豊かな気持ちになれた。今から、その1冊を眺めつつ、さらに考えを深めたい。

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