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本日記『太陽と毒ぐも』

こんばんは。ぴろです。

恥ずかしながら初めて角田光代さんの小説を読みました。日本から持って来ていた最後の本。短編集『太陽と毒ぐも』。

不意に瞳が潤んでしまうような感動があるとか、ものすごいどんでん返しがあるとかじゃなくて、ただそこにある、人間らしさがたっぷり詰まった、何気ない11のラブストーリー。それも、ハッピーエンドの、そのあとの。

角田光代さんの文章が、良い意味で美化されていなくて、口語っぽいところがあって。そこがこの小説の日常感にマッチしていて、すぐそこで起きていることを聞いているみたいな、友達の恋バナや愚痴を聞いているみたいな、そんな気分でした。

私も、数年前に付き合っていた元彼氏と「別れるだなんて想像もしていなかった頃」があったことを思い出しました。別れた頃も、別にうまくいっていなかったわけではなかった、と思います。私は振られた側だからかもしれないけれど、普通に毎日が続いていた、と。けれどもしかしたら彼には、「好き」という激情で見えていなかったものが少しずつ見えてきてしまったのかもしれない。ぴったりとハマっていたはずのパズルのピースに経年劣化で隙間が生まれたのかも。わからないけれど、今ではもうあまり思い出せません。
そして振られたとき、私はまだ彼のことが大好きだったので、「忘れられるわけがない」と思っていました。今ではもうあの頃の気持ちなどすっぱり忘れてしまったし、スマホが勝手にバックアップをとった写真が出てきても、心が痛くなったりしません。
けれどその人と別れてから、今は想像もつかないできごとが訪れる可能性があることを、自分は変わったつもりがなくても、見えない変化があることを、時間のもつ力は圧倒的であることを学びました。恋愛にあまりロマンチックではなくなって、少し現実的にもなりました。良くも悪くも。

…なんてことを考えたりした読後。こうしていろいろ考えを巡らせる時間も、物語のなかを漂っている時間と同じくらい好きなのです。

それからもうひとつ、小説を読むうえでの大きな楽しみが、「あとがき」と「解説」なのですが、、、
私の頭や心では紐解いて言語化しきれなかった気持ちを補填してくれて、それが悩んでいることやうまく答えを見つけられていなかった私のなかの濁りをスッ、と透明にしてくれたりするのです。この本の「あとがき」と「解説」も例によって、散らかった読後の頭の中を整理してくれました。読書をするとき、物語だけではなく最後の最後の 1ページまで読むことをおすすめします。もしそうしていないのなら。

誰の恋も、人生も、きっと小説になるようなドラマなんだと思うのです。ドラマがある、というより、日々がドラマなんだと。出会いとか、別れとかだけじゃなくて、誰と何を食べて、話して、そこでどう感じて、寝て、そういうものの積み重ねで日々はできているから。
事実は小説よりも奇なり。わたしはわたしのドラマを、大切に愛でたい。どんな出会いも日々も別れも。

愛、そういえば愛は見えないのだから、「愛」など存在しないのかもしれないと思えてくる。たまたま出会って、一緒にいて、日常を共有して、そして些細なことで崩れていく。「愛」だと信じて疑わなかった感情が、愛など到底揺るがさなさそうなこと、最初はそれさえも愛おしく感じたことーーーたとえばちょっと服のセンスが悪いとかーーーも少しずつ憎たらしくなって、もう戻れないところまできていたりする。
大好きで大好きでたまらないから一緒にいる、とは限らないこと。同じくらい大嫌いだったり、でも自分のものすごく深いところのなかにあるなにか、積年でつくられてきたそのなにかが似ていたり、いや、もしかしたら正反対かもしれない。結局のところ、愛に定義などなく、「愛」と名付けているからそこにあるっぽいだけなのかもしれない。だから愛なんて存在しないのかもしれない。それはただいろんな感情がなんとなく集まっていて、時間と共に形や匂いや感触がーーーいや、見えないし嗅げないし触れないものなのだけれどーーー変わっていって、最終的にどうなるのか、結局のところよくわからない。でも、別にそれでいいのだ。ロマンチックなんかじゃなくて、そこにあるのは淡々と進んでいく日常なのだから。かもしれない、と、わからない、だらけの愛でいいのだ。

私たちが大切だと思っているものは、どうでもよく思える小さなものたちの堆積でできているような気がします。愛、らしきものもきっとそうで。だからそれは、どうでもよく思える小さなことで崩れてしまったりするのです。だから。

経験したことのないはずなのに、どこか身近に感じる誰かのラブストーリー。友達と雑談するみたいな気軽さで読めて好きです。

ぴろ

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