幸せの『総量』を天秤にかけたとき

「この世に存在し得る幸せの『総量』って決まっていると思うの。
例えばね、私の友達の一人が順風満帆な生活を送っている時、私の生活は真っ暗闇の中に閉ざされている。
同じタイミングで私達が幸福を手にすることは無い。
いずれ時間が経てば、立場が逆転して私の生活が上手くいくようになって、その友達は壁にぶつかって苦しむ未来が待っている。
これは日常生活、個人と個人間で言えるのはもちろんだけど、これは地球規模でも言えることだと思うのよね。
どこかの国が飢餓と貧困に苦しんでいる最中、別の国は飽食にまみれている。
この幸せの『総量』が引き起こす一時的なアンバランスさ、不平等さが戦争や衝突に繋がるの。
だけど、この歪みを唯一解決できる存在がある。

それが『愛』。

『愛』があれば、自分が今持てる幸せを分け与えることができる。
けれど、『愛』って不条理で、脆い。
少しの揺らぎに敏感に反応して、あっけなく『愛』は崩れ去ってしまう。
この世界で誰かが幸せを手に入れた瞬間、誰かの生活がどん底に陥る。
そんな歪なバランスを取りながらこの世界は成り立っている。私達は幸せの『総量』の天秤に乗せられて生きているのよ。」



以上が彼女の中にある『幸福』の定義、そしてその『総量』の定義だった。
この幸福論に僕個人として付け加える点があるとすれば、個人の人生に最終的に与えられる幸せの総量は皆等しいということだ。
必ず人生のどこかしらのタイミングで帳尻合わせがくる。
そのタイミングは一回きりとは限らないし、数週間おきに帳尻合わせが起きる場合だってある。
例えば、僕の男友達Bは、大手企業の内定を得て、ひとまず食い扶持を手に入れ安定を手にしたかと思われていた。
その頃女友達Cは、所属していたサークルの予算の横領疑惑に見舞われていた。
だが、数週間経ったある日、Bが絶望した顔で僕に告げてきたのは、SNSにアップされていた未成年飲酒の映像が内定先に見つかり、内定が取り消しになったそうだ。
一方Cは、僕に嬉々とした顔で横領疑惑が晴れたこと、その上これまでのサークルへの貢献が認められて副代表に就任することになったと報告してきた。
ほら、彼女の言った通り、この世に存在し得る幸せの『総量』は決まっている。誰かが絶望している時、誰かは幸せを甘受している。
このケースにおける幸せの『総量』を十とする。
BとCは、まずBの幸せ指数が八、Cの幸せ指数が二だった。
だが、月日が経ってその指数は逆転した。Bの幸せ指数は一、Cの幸せ指数は九に逆転したのだ。
やっぱり、彼女の言った通りだ。この世に存在し得る幸せの『総量』は決まっていて、揺らがない。



高校を卒業し大学に入学した。
とりあえずバイトを始めて小遣いを稼ぎたい。そんな軽薄な気持ちで応募した警備のバイト。これがまず私が語るべき出来事だ。
そう複雑な話ではない。
求人サイトで時給が良さげなものを見つけて、気軽に応募した。
主な業務はコロナ患者が隔離されているホテルの出入口の警備だった。
私の教育係とも言える立場にあった一人の上司がいた。
最初は会話の延長線上で握手をしたりするだけだったが、そのうち頭を撫でられたり、抱きしめられるようになった。
そうこうしているうちは、世間知らずなあたしはなんとも思わなかった。
ああ、欧米感覚の人なのかな、この程度のスキンシップはごく当たり前のことなのかな、なんて思いながらやり過ごしていた。
ところが、数週間経ったある日、別の上司からあたしの教育係がいわゆる左遷的な処分を受けることになったと知らされた。
私が今までされてきたことは立派なセクハラだったらしい。
そこで言われて初めて、私は自分の身体の境界線を土足で踏み込まれることの嫌悪感が沸き立ってきた。
私の身体は私のもので、他の人間が許可なしに踏み入れていい領域ではない。
私の身体が汚らわしいものに思えてきた。
私の身体はそこらへんのおっさんに穢された。
その上、私は、人生で初めて異性に抱き締められるのなら、大好きな人がその相手だったらいいなあ。
なんて、女子校出身の乙女チックな夢を見ていた。
その夢を壊された。
私の体をを人生で初めて抱き締めた男が、好きでも無い、穢らわしいおっさんだなんて。
これから先、好きな異性に抱き締められたとしても、初めて抱き締められた相手はそのおっさんという事実は消えない。
一生、消えない。
そのストレスを発散する唯一の方法はリストカットだった。
そこから精神を病み、睡眠障害を抱え、メンタルクリニックに通い抗うつ剤を定期的に貰う日々が続いた。
今も続いている。
このように私がバイト先でセクハラにあっていた時、高校からの友人Aは音大のオーケストラコンクールで賞を獲り、Aが作曲した曲がオーケストラによって実際に演奏されたようだ。
今は、また同じコンクールの受賞者常連にならなければならないというプレッシャーを感じているらしい。
幸せな悩みだ。
告白されて付き合った彼氏ともうまくやっているようだ。



こんな私にも初恋の経験がある。
中学から高校まで、六年間を女子校で過ごしてきた私にとっては、男子慣れしていないが故の勘違いフォーリンラブだったのかもしれない。けれど、大学に入学して初めての英語の対面授業の時、会話を交わす前から、相手を真正面から見つめる前から、その人のことを好きになってしまっていた。
こちらの教室に向かって歩いてくるその姿を見ただけで好きになった。
そして授業が始まり、初回ということもあってランダムでペアを組み自己紹介しあうことになった。
先生が配った紙に書かれた番号が同じ人とペアになる、といった流れだった。
私の番号は八で、なんとなく彼も同じく八だろうな、と思っていたら、本当にお互いに八で、ペアを組むことになった。
そこから、英語でお互いに自己紹介し、初めて会話を交わした。
授業終わりには、彼の方からLINEの交換をしないかと言われ、交換し、知り合いが学部の中に少ないことなどを話しながら大学構内を少しだけ一緒に歩いた。
それから、度々LINEで課題に関するやり取りなどしつつ、私はずっと彼のことが気になり続けていた。
それから時が経ち十一月頃、私の単位の取得状況が進級要件に満たないかどうかレベルだったため、思い切って彼に相談しようと思い、メッセージを送ってみた。
快く相談を引き受けてくれて、実際に授業外では初めて会って、時間を取って話を聞いてくれた。
彼はこちらが寒くないかどうかを気にかけてくれたり、今まで見た服装の中で一番お洒落な服装をしていたりと、彼なりに準備してきてくれたんだなとこちらにも伝わった。
年が明けて、年度も終わりに近づいてきた時も、レポートの進捗を彼の方から気にかけてくれ、ありがたみを感じた。
そして、四月になり晴れて二年に私は進級することができた。
だがこの二年生になるまでの間に色々と私が問題を抱えてしまっていた。
その問題とは先述した通りだ。
授業の出席もままならなかったため、先生側と単位をくれる、くれないのメールのやり取りをすることも多々あった。
前期の単位を巡って先生とメールでやり取りしていた七月に、ヤケクソになって、これまで唯一私の味方であった彼を、夏休み中の遊びに誘おう、拒否されたら死のう、と思い「夏休み中は忙しい?」とLINEを送った。
すると、その日中には返信がきて、日程までスムーズにその日中に決まった。
八月上旬に遊ぶことになり、心の底から楽しみだった。
だが、彼がコロナにかかってしまい、その療養後は以前大怪我を負った背骨の残りの手術のために入院するということで、秋に持ち越すことになった。
夏休みが明け、文化祭が行われた際、彼が所属しているサークルに顔を出して会うことができた。
この時、彼の方から気づいて声をかけてくれたのだが、私は文化祭を同じ専攻の男子と回っていたため、彼にその男子と付き合っていると勘違いさせてしまったかもしれない。
それから、LINEの返信のペースも遅くなり、持ち越していた遊びの日程も決まらず、関係性が微妙になってしまった。
以前したみたいにまた単位のことで相談しようと思いLINEをしてみましたが、今度は未読無視されてしまった。
そんなある日、彼が女子と手を繋いで歩いているところを大学構内で見かけてしまった。
彼は別の女子とお付き合いを始めたようだった。
それを見かけて私は逆に怒りが湧いてきてしまった。
そして、なぜ未読無視するのか、彼女がいるのは分かったから少なくともそれを私に言った上で相談を断れば良いのではないか、ここまで言うのは私があなたのことを好きだからだ、といった内容の長文LINEを彼に送りつけてしまった。
すると返信があり、「未読無視してごめん、でも気持ちには応えられないと思う」と返ってきた。
その上、LINEをブロックされた。
結局、私は同じ専攻の男子と付き合うことにした。
これは半ば戦略的な理由もあり、同じ専攻の他の授業の情報を知れる、就活面で協力し合えるなどの理由で付き合い始めた。
これはその男子は知らない。
私は今付き合ってる男子のことは人としては好きだが、恋愛感情は持っていない。
自分でも最低なことをしていると思っている。






私が初恋の人にこっぴどく振られ、食事も喉を通らず、ひたすら涙に暮れていた時。
これまた高校からの友人Ⅾは、所属している演劇部で自作の脚本が企画として通り、上演されることになったらしい。
その上、相性の良い恋人と巡り会い、幸せに満たされた日々を送っている。

私がセクハラに遭って私の体に無遠慮に入り込まれることに耐えていた時、初恋の人に振られた時、友人二人は順風満帆な日々を送っていたそうだ。
勿論、私には見せない苦労もあったに違いない。
けれど、私は二人を呪ったし、自分自身のことも呪った。
自分だけが不幸の連続に見舞われていて、友人二人は充実した日々を過ごしている。

そんな日々の中、私の頭にふと思い浮かんだのが、幸せの『総量』についてのセオリーだ。
この幸福論が正しいのなら、今現在の状況に絶望して自死するのは時期尚早だ。
なぜなら、あと数ヶ月、数年、数十年経てば、状況が逆転するに違いないからだ。
時間が経つのを辛抱強く待ちさえすれば、私の時代がくる。
私のこの幸福論が称賛を浴び、両想いの人と結ばれる。
私の心が満たされる。
私の天秤が名声と恋で満たされる。

その時がくるまで、息を潜めて私はじっと耐え忍んでみせる。


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