中欧スロベニア、凍ったブレッド湖を歩く
大学の卒業旅行はひとりでヨーロッパを周遊すると決めていた。2週間でイタリア、スロベニア、クロアチアの3カ国を周る。真夜中に自宅の勉強机で、地図帳を見ながらエクセルに旅程を打ち込んでいった。
憧れのベネチアではカーニバルに参加しよう。ローマでジェラートを食べて、アドリア海を船で渡るんだ。ジブリ感満載なドブロブニクはもちろんマストね。あ〜ワクワクが止まらない。
正直スロベニアは、絶対に行きたいイタリアからクロアチアへの通過点に過ぎなかった。
ところが「スロベニア 観光」と検索し、表示された写真に目が釘付けになった。
ブレッド湖。スロベニア北西部に位置し、アルプスの山々に囲まれたエメラルドグリーンの湖の真ん中に、ポツンと孤島が浮かんでいる。青空と教会が湖に鏡張りになった写真は、まるで絵画のような美しさ。
上空から見ると、孤島が瞳のように見えることから、『アルプスの瞳』とも称されているらしい。なんて素敵な響き……。
スロベニア、いいね。『地球の歩き方』の「ブレッド湖」のページに黄色い付箋を貼り、大事な情報はピンクのマーカーでなぞった。
◇
2012年2月。私は関空からベネチアに飛び、3泊滞在したのち、イタリアのメストレという街から乗り合いバンで、スロベニアの首都リュブリャナに向かっていた。
乗り合わせたスペイン人女性と歓談しつつ、車窓を眺めた。雄大なアルプス山脈のふもとに、オレンジ色の屋根をした家々が点在している。直感で「この国、すごく好き」と感じた。
スロベニアは四国くらいの広さの小さな国。旧ユーゴスラビアのなかでいち早く独立を果たした。
リュブリャナはのどかな雰囲気の街で、秩序があり治安が良く、人も穏やかで居心地がよかった。
リュブリャナには2泊した。リュブリャナ城に登ったり、名物のパン包みマッシュルームスープを食べたり、慣れないワインに挑戦したりして過ごした。
◇
リュブリャナからブレッドへは、バスで1時間半の距離だ。まだ寒さが厳しい2月、凍結した道路で横転した車がバスの行く手をふさぐというトラブルに見舞われつつ、なんとか辿り着いた。
ブレッドで宿泊するユースホステルへ、ひとまず荷物を置きに向かう。閑散期ということもあり、4人用のドミトリーは貸し切りだった。
部屋の壁には、ブレッド湖の絵画が飾られている。ついにあの絶景を拝めるのか……。胸の高鳴りが止まらない。
居ても立っても居られず、リュブリャナで購入した小さな人形を携え、宿を飛び出した。
ブレッド湖はすぐそこだ。足早に森を抜ける。そしてついに、待ち焦がれた湖に対面……!
のはずが、ない。湖がどこにもないのだ。ど、どういうこと……?
何が起きているのかを理解して愕然とした。湖は凍っていた。白く凍結していたのだ。
完全に想定外だった。煌めく水面、湖に映り込んだ教会、そんな景色を見るのを楽しみにしていたのに……
すっかり意気消沈した私は、肩をがっくりと落とした。ほんと、まさかだよ。
気が抜けた状態でブレッド湖を眺めていると、湖面を人がスタスタと歩いている。アイススケートやそり滑りを楽しむ人までいる。
私は自分をなだめた。これはこれで、なかなか見られる光景ではないよ。せっかくここまで来たんだし、楽しまなくちゃ。
気を取り直し、おそるおそる湖上に立ってみた。すごい、本当に歩けるぞ……!
所々で氷が薄かったり、割れていたり、溶けて滑りやすくなっている場所もあるので、十分に気を付けなければいけない。
しばらくしてから足を止め、顔を上げると、目の前に広がる光景に息を呑んだ。
澄んだ青空、壮大なユリアン・アルプスの山々、一面に広がる氷の湖。自然が織りなす幻想的な風景は、まさにおとぎの世界だった。あまりの美しさに涙が滲む。
スロベニア最古の城であるブレッド城が、切り立った断崖の上にそびえている。
胸がいっぱいだった。世界にはこんな美しい場所があるんだね。
湖上でラブラブするカップルがあまりにもロマンチックで絵になるので、ぼっちの私は指を咥えつつ、つい盗撮してしまった。
オフシーズンなので観光客はまばら。風景に見とれたり、氷の上に絵や文字を書いたり、写真を撮ったりして遊んでいたら、あっという間に1時間以上が過ぎていた。
ブレッド湖に浮かぶブレッド島。通常であれば手漕ぎボートに乗って渡るが、今回その必要はない。
「湖上を歩いて島に渡る」という初体験に興奮がとまらない。5分ほど歩くとブレッド島に上陸した。
ブレッド島に佇む聖マリア教会。創建は9世紀頃とされ、17世紀に現在のバロック様式の教会に改築された。
教会の鐘を3回鳴らすと願いが叶うという伝説があるらしい。教会の階段に腰掛け、誰かが鳴らす「カーンカーン」という鐘の音を聴きながら、うっとりした。
ブレッドには名物のクリームケーキがある。サクサクのパイ生地に、ふわふわスポンジとカスタードクリームが挟まれている。
絶景を前においしいケーキを頬張りながら、「いま死んでも後悔はない」と思った。胸がいっぱいで、最初の何口かでお腹もいっぱいになってしまった。
ブレッド湖をぐるりと囲む遊歩道を散歩する。あちこちに休憩場所があり、サンドイッチやフルーツを持参してピクニックする人も多い。
美しい自然を見ながらの散歩は心身リラックスできる。ブレッド湖に生息する白鳥は人懐こくて癒された。
気付けば4時間以上が過ぎていた。帰ってユースホステルに併設されたレストランで夕食を食べ、ぐっすりと眠った。
◇
午前5時。私は夜明け前のブレッド湖にいた。静寂に包まれた広大な氷の湖を独り占め。
ライトアップされたブレッド城は、昼とはまた違った雰囲気で美しい。
高揚が最高潮に達した私は、ディズニー映画「眠りの森の美女」の楽曲、『いつか夢で』をハミングしながらスキップした(誰にも見られていないことを祈る)。
ひとりで大はしゃぎした結果、滑っておしりからドーンと派手にこけるハメに。
空が少しずつ明るく、ピンクに色づいてきた。ブレッドに朝がやってきたのだ。
おはよう、ブレッド。
◇
あれから約10年が経ったけど、私はブレッドで味わった感動を、今も鮮明に呼び起こすことができる。
人生の満足度は、心が震える瞬間に何度出会えるかに比例すると思っている。
旅はいつだって感動とトキメキをくれる。だから私は、これからも旅に出る。
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