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『自己責任論』には根拠がない。『自由意志』など存在しない。



コロナ禍の暗雲垂れ込める中、ある言葉が人々の間で流行している。

『自己責任論』

他人、時には自分に対してすら向けられる残酷な響き。

「だが、それは現実。」人は言う。

我々の選択は、我々が自ら選ぶものである。

自由意志を持つ我ら人間は、自らの運命を自らで切り開くことが出来るのだ。

全ての行動は、何物にも干渉を受けない個人の意志によってなされる。

そう、自由意志だ。

それにもかかわらず、困窮し、苦しみ、奈落に堕ちることは、

すべて個人の責任に因るものである。

因果応報の果てである。

自由意志の名の下に、ここに『自己責任論』を宣告する。

厳しいか。しかし、世界はそういうもの。受け入れるほかはない。









否!!!


その考えは間違っている。

何が現実か!

それは『虚構』!

完全な思い込みである!



自己責任論とは

劇的な前書きをしてしまいました。しかし、私はこれをやり過ぎだとは思いません。『自己責任論』には、それほど強く、冷たい響きがあります。


今や世間に浸透し、その問題点や是非が議論されるまでになったこの言葉ですが、そもそもどのような意味をもつものなのでしょうか。なんとなく、漠然と理解しているだけの方も多いように感じます。

まず、その定義を確認しておきましょう。


自己責任論とはその人の今ある状況(経済、地位、健康状態など)が、その人自身に起因するとみなし、責任を負わせる考え方。

端的にまとめてしまえばこういうものになります。


例をあげます。


「貧乏な人が貧乏なのは、その人がお金を稼ぐ努力をしなかったからだ」

かなり厳しいですね。しかし、このような考え方は世間に広く浸透しているように感じます。「いやいや、さすがにそんなことは考えてないよ」と思った方、ではこれはどうでしょう。


「今億万長者になっている人は、その人がそれだけの努力をしたからだ。」

こちらの考え方ならば、なじみがあります。自分の功績に対して、このように思っている方も多いのではないでしょうか。実際、私もそのように思っていました。

でも、上の例文と下の例文、違うのは貧乏と億万長者という言葉だけです。


我々は気が付かぬうちに、『自己責任論』を自らにインストールしてしまっているのです。


『自己責任論』、何が問題か

ここまでご覧いただいて、「なんだ、自己責任論正しいじゃん」と思った方もいるかもしれません。しかし、『自己責任論』には大きな問題があります。


それは、”問題解決の正当性”が損なわれること


「あの人が貧乏なのはあの人の責任だ」

「あの人が病気なのはあの人の責任だ」


そのあと、付け加えられる言葉はこうです。



「彼らが自分でそういう選択をしたわけなのに、彼らを助ける必要があるか?

だって、努力しない彼らが悪いんでしょ?

努力したらいいじゃん。俺だって努力してここまでなったんだし。」


「自己責任論」という考え方は、このような結論に導きかねません。


これは、”救済活動”を危ぶめる考え方です。実際、残念ながら、生活保護受給者に対しての批判はこのようなものがほとんどです。



また、『自己責任論』は当事者達を追い詰めます。

世間から『自己責任論』の刃を向けられた時、当事者が自らのうちにある失敗体験を想起し、

「ああ、あの時こうしてさえいれば。」

「もっと努力していれば」

という後悔から

「私が貧乏なのは、私の努力が足りなかったからだ。」

という結論に至ることは容易に想像できます。


しかし、それではなにも解決しません。ただ追い詰められるだけです。






断言します。『自己責任論』は間違っています。


では、どうして間違っているのか。それを解説していきます。


『自己責任論』の根拠は『自由意志』だから


『自由意志』という言葉を知っているでしょうか。これは、『意志の自由』とも言い換えられます。


我々は、我々の意志、つまり「~をしよう」だとか、「~に賛成だ」などといったものが、我々自身から自由に生じているものだと思っています。

つまり、我々の行動は我々が選択して行っていると思っているわけです。


「今日買い物に行こう」とか、「私はこれが好き」とか、「なんか変な記事だけど読んでみるか()」といった意志決定を自由に行っていると考えているわけです。





しかし、それは誤りです。

我々の意志決定は、我々が自由に行っているわけではありません。

意志には必ず原因があります。

意志はその原因によって決定されています。

我々が自分で決定しているわけではありません。

”純粋な自由意志”など存在しないのです。


どういうことでしょうか。例を挙げて説明します。


たとえば、「買い物に行こう」という意志は家に食材が十分にないという原因から。「クラッシック音楽が好き」という意志の原因は、昔から家にピアノがあったからというものなど。この記事を読んでいるのは、自己責任論という言葉をどこかで聞いたことがあったから。



「何言ってんの、当たり前の事じゃん」そう思われると思います。


そう、当たり前なんです。


『自己責任論』に当てはめて考えてみましょう。


「貧乏な人が貧乏なのは、その人がお金を稼ぐ努力をしなかったからだ」

貧乏になるのは原因があります。経済不況、格差、教育が十分でない。決して、本人の意志では解決されない原因です。努力といったって、努力をする場所もなかったとしたら?それは大きな原因です。


「努力する場所がない」、それはだれの責任でしょうか?


社会です


もしそのような場所で”努力”と呼ばれる行動をしていなかったとしても、その”努力をしていない”ということは、本人の意志ではなく、その意志の原因である”努力をする場所がない”ということそれ自体を表しているのです



つまり、


「意志というものには必ず原因があり、その原因によって意志は決定されている。

よって”自由意志”、”意志の自由”は存在しない。

また、意志は”その人自身”に責任を負わせるものではなく、

その”意志の原因”に責任を負わせるものである。」


ということです。


その意志が自由でない、つまり半ば強制されているものなのに、どうして『自己責任』なんてことが言えるのか。


言えません。


責任は1番の原因にあるとされます。それは多くの場合、社会の構造です。

最後に

ここまで

・『自己責任論』とはなにか

・『自己責任論』の問題

・『自己責任論』はなぜ間違っているのか

ということについてお話してきました。




この議論は非常に難しいように見えて、実は単純です。


つまり、行動決定をする意志というものに原因が存在するので、責任はその意志によって行動する人ではなく、その意志の原因にあるということになるのです


我々の意志は、”純粋な我々の意志”ではありません。その意志を持つまでにたくさんの原因があり、それが多元的に作用して人を行動させるのです。


こういった考えは、哲学者のスピノザや社会学者のブルデューなどによって提唱されています。興味がある方、もっと深く知りたいと思われた方はぜひ読んでみてください。


私もこの考えに強く賛成します。それはこの考え方に強く共鳴するという理由もありますが、もっと大きいものとして、問題を大きな枠で考えることが出来るということがあります。



コロナ禍において、『自己責任論』が主に適用されるのは、貧困や病気、そして"望まない"風俗業などの深刻な問題です。



こういった問題は、決して『自己責任論』という根拠のない決めつけで扱われてはいけない問題だと感じています。社会という大きな枠から真剣に、そして精密に議論し、解決すべき問題であると思います。





「目指すべきは、責任社会ではなく、社会責任である。」






ここまで読んでくださり、本当に、本当にありがとうございました。これは私の意見です。よろしければ皆様の意見をお聞かせください。


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