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自由という才能

子供の頃からよく空想に浸って遊んでいた。
ファンタジーが好きで、剣と魔法の世界にワープした僕は、いつでも最強の主人公だった。だから、世のなろう小説というものにシンパシーを感じるし、楽しめもする。あれは文学的ではないかもしれないけど、捨てたものではないと思う。人の妄想を覗き見できるというのは面白い。

空想の癖は大人になっても抜けずに、僕の中で「最強の魔法剣士ぴぴぷる」の物語は続いている。お気に入りのシーンは、僕の強さを信用しない人達の前で剣をふるって、「なんてことない素振りじゃぁないか」となった後、遠方の山が斜めにズズッ・・・と崩れ落ちるというものだ。最強である。これでも本気を出していないのが恐ろしい。現実は女子平均の握力しかない軟弱者だけど。

頭の中の冒険活劇を楽しんでいたのは、中学生くらいが最盛期だったろうか。その頃から少しずつ生まれ始めた、別の空想があった。

それは、音楽に合わせて、頭の中で勝手にPVをつけるというものだった。

歌詞にあったものであったり、そうでなかったりもした。気に入っている曲には、イメージがよく沸いた。この遊びはとても楽しくて、僕の救いでもあった。

様々なイメージを、思うがままに。
雨の中の傘や、駆けてゆく少年。泣いている女や、突き抜ける青空。
音楽を聴くたびに、自然と頭の中に映像が浮かんだ。自分は天才なのではないかと感じていた。思えば、なんて自由だったんだろうか。

文芸部に入ったことにより、その空想は詩という形を得ることになった。
最初はうまくいかなくても、だんだんと上手になるもので、やはり自分は天才なのでは・・・と思った。おめでたい奴だ。

しかし、僕は停滞してしまった。
自由だった空想は、テンプレートという概念が入ったことにより、つまらないものに思えてしょうがなくなった。詩のほうも、作るもの作るもの、文字を変えただけに思えて、どんどん気持ちが小さくなっていった。

だけど今、noteが楽しい。
自分で記事を書くのが楽しいし、人の記事を読むのも楽しい。皆とても上手で感心する。
でも、いままでみたいに劣等感を感じていない。それはきっと、凡庸であっても、自力として文章を作れることを実感しているからだと思う。

産み出したものの質に関係なく、書き続けていれば何かしら身についているものだと、記事を書くたびに嬉しく思っている。

今思うことは、楽しいことが一番大切だということだ。きっと皆、最初は自分を天才だと思ってのめりこむはず。挫折の早い遅いはあるだろうけれど。
凡庸であることを嫌がって、それをやめてしまうなんてもったいない。僕たちは、褒められたくて始めたんじゃないはずなのだ。

ここ最近、旅行にいったり仕事で疲れたりと記事を書けていなかったけど、僕は多分これからもnoteを書いていける。それは、才能どうこうではなく、書くことが好きだと理解できたからだ。

それでも、僕の記事を褒めてくれる人がいて、それが自信のある文章だったりすると「やっぱ天才なんじゃね?」と思う自分もいる。こりない奴だ。でも、その感覚を素直に楽しめる自分がいる。それが嬉しい。

noteという場所を見つけられて本当によかった。前半と後半の雰囲気の違いがやばいけど、これでいいんだ。僕が楽しいのだから。

僕をサポートすると宝クジがあたります。あと運命の人に会えるし、さらに肌も綺麗になります。ここだけの話、ダイエット効果もあります。 100円で1キロ痩せます。あとは内緒です。