忘れられない幸せ

雪が降らないまま冬が終わった。それでも夜は寒くって、外に出るのにコートとマフラーは必需品だった。水溜まりが凍らなくても、耳が痛くなくても、暖かいものが恋しくなる。

なにを食べようかな。

わくわくする。僕は幸せを探しに、バスへ乗りこむのだ。

飲み屋街は閑散としていた。人はまばらで、誰も深く酔っていないように見える。点々と光る提灯が寂しい。例のウイルスは意地悪だなとおもう。今日はコロナビールを飲んでやろうかな、なんて。

歩きながらゆっくりと店を探した。ひとつひとつ通りすぎていきながら、ガラス戸や窓から見える店内を覗く。どのお店も客は少ない。でも、おかげで店主と楽しそうに話している様子が多く見えた。うん、悪くないなぁ。

自分の心の声を聞くのって難しい。暖かいものが食べたいおもうけど、色々なものが誘惑してくるもの。店の前の黒板には鱈の白子のピルピルだとか、地物刺身の盛り合わせだとか、能登豚のローストだとかが並んでいる。ダクトから漂う強烈な香りが僕の欲を刺激してくる。どれもこれもうまそうだけど、高い。

ふ。残念ながら、僕はまだ素面だ。

負けない。身の丈はまだ、心に留まっている。

暖簾をくぐると、客は一人だけだった。その老人はカウンターでおでんと日本酒を味わっていた。背筋がピンと通っている。その姿が、妙に目をひいた。

少し悩み、ひとつ席をあけて隣に座る。
大根に卵とこんにゃく。それに生中を頼んだ。コロナビールはなかった。そりゃ、おでん屋だものね。

5分とたたずに、店主が盛り合わせた皿を渡してくれた。湯気から香る出汁の質に口角が上がる。さて、まずは大根からと、箸を通す。

僅かな抵抗を残し切れたそれを、口にはこぶ。綻んですぐに溢れだす出汁。たまんない。

「・・・うんまっ・・・。」

思わずそう呟くと、隣の老人が笑った。

店に入った時から思っていたけど、綺麗な人だった。自然なグレイヘアーの短髪に、細身に似合った黒いスーツ。長い睫毛に、青い瞳。簡単に言って、おでん屋には似合わなかった。彼の周り3センチくらいが薄く光っているような、そんな雰囲気を纏っていた。

「美味しそうに食べますね」

そう言われて、妙に恥ずかしくなってしまう。まるで平民と貴族だ。僕はビールをぐぐっと流し込んで誤魔化した。こうなったら、一蓮托生。今夜はこの人との思い出になるだろう。酒で心を決める。きっと、いい人だ。

「いや、だってまじうまいんですもん。」

言葉にすれば、自然と笑えた。老人もどこか嬉しそうだ。細くなった目の奥の瞳が、宝石みたい。

「私もそう思います。おでん屋は色々ありますが、この店が一番鰹出汁が濃い。それを吸い込んだこの大根は、最高だ。」

あぁ、この人はおでんが好きなんだな。不思議だ。話し方、表情、声のトーン。すべてが高潔な空気を纏っているのに、こんな庶民の食べ物が好きだなんて。ちょっと可愛い。
もう一口ビールを、と思ったところで気づく。体を彼の方へ向け、目があったところでグラスを少しだけ掲げた。

「「乾杯」」

ホコホコの黄身がおいしい。少し崩して、出汁に溶かしてしまおうかと悩む。僕は定番だと思っているけど、この人の前だとなんだかはばかられるな。

チラリと見れば、彼がその行為の真っ最中であった。あっけにとられていると、皿に口をつけそれを飲みはじめたじゃないか。あれは盃に入った酒だったのかと思うけど、違う。垂直に近づくほど皿の角度はあがり、やがてカウンターに戻った。

極上とでも言うように息をつく彼。その様子に、今度は僕が笑ってしまった。

「すんません。ちょっと、意外で。美味しいですよね、黄身の溶けた出汁。」

「ええ、本当に。」

そう言って微笑む顔があまりにも綺麗で、僕はつい顔をそむけてしまった。感じが悪いようで不安になり、慌てて僕も黄身をくずし同じように飲み干した。後についた息は、くらべものにならない下品さだったけど。

どうにもこの人に惹かれる。それでも踏みとどまっているのは、恥ずかしさだけではなかった。彼の纏う光が、僕の影を濃くする予感がしていた。滲み出る経験の雰囲気。それは避け続けてきたものの象徴のようだった。

ただ、目の前に綺麗な人がいて、共に酒を呑んでいた。名前を聞いてしまったのは、仕方なかったとおもう。

「そんな目で見てもらうような者では、ないのですが。」

悲しそうな、嬉しそうな、複雑な表情だった。彼は日本酒を一口飲んで、おでんをいくつか頼んだ。大根、豆腐、それに車麩。

「-冬川といいます。しがない物書きですよ。」

どんなものを。
そう聞こうとすると、店主が盛り合わせを差し出した。冬川さんは再び大根を食べ、それを酒で流した。

彼は人差し指を立てて口の前に持っていく。あぁ、そうか。上澄みしか教えてくれないんだな。寂しさより、安心のほうが勝った。

「ひとつずつ、答え合いましょう。」

悪い約束をするように彼は笑った。その顔があんまり綺麗だから、またお尻が浮いてしまう。でも、もうビールは空だし、おでんもなかった。耳が熱い。酔いが早い気がする。

僕はビールをおかわりせずに、彼と同じ日本酒を頼んだ。追加のおでんに、今度は刺身も。

二度目の乾杯をしてから、すこしずつお互いを教えあった。名前、好きなお酒、好きな本、趣味の話など。
小説のことを語る時、冬川さん周りの光はより強くなっているように見えた。

僕も 書くのが好きなんです。

その言葉を、胸の奥で抑えていた。その先で辛くなる自分を知っていたから。かわりに日本酒がよく減った。今にぴったりの味だ。しょうがない。

冬川さんは一本を大事に呑んでいる。ゆっくり、ゆっくり。
僕だって、なにかを塗りつぶすような飲み方は好きじゃないんだけどな。追加の酒をどうしようか悩んでいると、彼が口を開いた。

「仕事をした日は、ここに来ると決めています。」

青い瞳はこちらを向いていない。視線が皿の中に吸い込まれているようだった。仕事というと、書いた日だろうか。それだと毎日のようにここに来ることになりそう。やっぱり、なにか社長さんかな。

仕事って と言いかけたところで、冬川さんはまた指を口の前に立てた。今夜のルールを思い出させる、素敵な仕草。

「ぴぴぷるさんは、何のお仕事をされてるんですか?」

僕は介護をしていると答えてから、もう一度同じ日本酒を頼んだ。瓶の残りを小さなグラスに注いで、刺身をつまむ。肉とは違う柔らかな身と舌触りのいい油が口のなかで溶ける。それを少量の日本酒で喉へ流すと、幸せがふわりとやってきた。

小さな不安や緊張をほぐす酔い。それでも固さの残る心。追加の日本酒を飲み終える頃には、心地よさに身を委ねていれるといいな。僕の一人相撲に関係なく、冬川さんは綺麗なんだから。

そう思って彼を見ると、またあの複雑そうな顔をしていた。あぁ、この顔が好きだな。なんでそんな顔をしているかは知らないけれど、優しさが滲んでいる。

「・・・私は」

そこまで言って、彼は鞄を膝の上においた。その中からなにかを取り出すと、顔の前にかざした。くすんだ色の、骸骨の仮面だった。

「私は、死神をしています。」


カウンターに置かれた仮面が照明に照らされている。ここが洒落たバーだったら、絵になったかもしれない。

「おでんは、暖かくておいしくて、嫌になります。だからここに来る。忘れないように。私は、幸せじゃいけないって。」

それは、すこし共感を覚える言葉だった。とても口に出せはしないけど。

「選んではいます。無差別に間引いている同僚もいますが、私は臆病なのでそういうことができない。だから、もういいなと思える人を終わりにしています。それこそ、施設の老人などを。」

二人のルールが破られていることに僕は気づいていた。こぼすように言葉を続ける彼を、黙って見ていた。あの仕草の真似をしてやりたい気持ちもあったけど、やめた。冬川さんをもっと覗きたかったから。

「僕も、彼らは終わりにしてあげればいいと思いますよ。」

酒の小瓶を二人の間に持っていく。どうですかと聞くと、彼は迷いながらもグラスを差し出してくれた。

トク・・・トク・・・。

すこしだけ、多めに注いだ。もっと酔ってしまえばいいと思った。

「それでも、私が終わらせたことに変わりはありません。3日後に息をひきとるとしても、それまではその人の命だ。」

冬川さんの光が揺れている。なにを言ったらいいかわからない。返事ができずに、おでんをつまんだ。すこし冷めてしまった車麩からぬるい出汁が溢れてくる。美味しい。

冬川さんは、この店に来ることもよしとは思っていない気がした。それでも来てしまうのは、きっと酒が好きだからだ。忘れないためというのも本音だろうけど、言い訳にしている部分もあるんじゃないか。

だらしない自覚。それが愛しいなと思った。

「ぴぴぷるさんは、私が怖くないんですか?」

青い瞳が僕を見ていた。本当に綺麗で羨ましい。

「・・・だって、ただの酒呑みでしょ?」

その時の彼の顔といったらなかった。ポカンとしていた。これで豆腐を箸から落としてくれたら、完璧だったのに。

冬川さんはおでんを大きな口を開けて食べ、グラスの酒を一気に流し込んだ。そして大きく息をつき、ニヤリとして言った。

「あなたと一緒にしないでください。」

―今度は僕がポカンとしてしまった。彼は二人のグラスへ残りの酒を全部注いで、また酒を頼んだ。

ふつふつと、おかしさが込み上げてきていた。
僕たちは何度目かの乾杯をしてから同じように一気に飲み、下品な声をあげて味わった。お互いの顔を見合わせ、やがて大きな声で笑いあった。なにがおかしいのかも分からないまま、堪えたり吹き出したりしていた。たまらなかった。

笑いすぎて涙がでても、夜は明けない。ずっと客は僕らだけだったけれど、二人の間の席は埋まらなかった。酒がどれだけまわっても、僕は書くことが好きと言えなかった。

目が覚めると、冬川さんはいなかった。慌てて時計をみると、深夜1時をすぎている。いつから寝ていたのか覚えがない。やってしまった。

店主に謝って会計をお願いすれば、払ってもらったよと笑われる。あぁもう、恥ずかしい。

バスもこの時間じゃもうない。タクシーが捕まるといいけど。店を出ようとすると呼び止められ、メモを渡された。冬川さんからだという。お礼を言って、扉を開けた。

外は雨降りだった。傘なんて持ってきてない。立ち尽くしていると、店主が傘を貸してくれた。僕はお金を払っていないってのに、申し訳ない。痛む頭をさんざん下げた。

メモを開く。暗い店先で、提灯の明かりを頼りにそれを読んだ。


ぴぴぷるさん、今夜はありがとうございました。あんなに笑ったのは本当に久しぶりです。でも、もうここには来ません。今日を最後にします。忘れられない思い出になりました。さようなら。


読み終えてすぐに、提灯が消えた。ほどなく扉から漏れる光も無くなり、冷たい暗闇がやってくる。

冬川さんの笑い声、目じりに溜まった涙、綺麗だったな。辛かったのかな。僕だったらこんなことを伝えても、多分また来ちゃうけど。・・・悪いことをしたかな。

借りた傘をさす。雨が当たる音ばかりが騒々しい。こんなに幸せな夜だったのに、胸が痛む。

「忘れてくれて、いいんだけど。」

一人で言い訳をこぼしても、街は冷たいままだ。マフラーを着けてきてよかった。通りにタクシーなんて一台もいないし。

もういいや。歩いて帰ろう。

今日は寒いままでいい。おでんは、しばらく食べたくない。

僕をサポートすると宝クジがあたります。あと運命の人に会えるし、さらに肌も綺麗になります。ここだけの話、ダイエット効果もあります。 100円で1キロ痩せます。あとは内緒です。