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感想 『→ぱすてるぴんく。』

曇っているようなのに、まぶしい。

多分現代的な「青春」、恋と人間の様相を。エスノグラフィーのように、分析的に感覚的に。

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 縁あって手にした『→ぱすてるぴんく。』の感想なんてものを書いていきたい。正直普段ライトノベルを読まず、最近は一般的な小説さえも読まないため久しぶりに活字の物語を味わうこととなった。

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ぼっちの高校生軒嶺緋色には彼女がいる。ブログのコメント欄から恋を芽吹かせ、ビデオ通話で愛を育んだ“ネット彼女”の楢山スモモ。新年度初日。クラス替えも静かに乗り切り、素早く帰宅した緋色だが、彼の前に、ここにいるはずのない少女が現れた!! 画面の向こうのかわいい彼女が、ぼっちの殻をぶち壊す! 本当に大事にしたかったのは、大切な人? それとも……。痛くて痒くてそれでも進む、炎上系スマホラブコメ!!

内容紹介 

非常に現代的な恋愛小説だ。
もはや使い古された王道の構造に、現代的な肉付けをしている。
あまりの王道さ、そして起承転結のお約束への丁寧さから、正直なところライトノベルというより一般の小説に近い。ざっと読んだせいかもしれないが、アニメ・漫画的な外連味を感じなかった。

作品雑感

現代性

 嘘か本当か、ネットから始まる恋愛もあるのかと興味深く感じた。インターネットという次元、スマホというツール、膨張した自意識、これらが現代的な要素として面白い。

 そして、10年代以降増え始めた「本物ファンダメンタリズム」(※これは私の造語)、つまり「本物」を求める人間の様を描写することの系譜に多分にある。
 この世のどこを探しても「本物」は見つからない。原理的にそれを「本物」だと証明することができない。しかし、本物無しでは、全く先のわからない人生に投げ出されることとなる。今手にしているものが、確かなものなのかさえわからない。人はそのことに疲れてしまったのだと思う。実存の疲れと言ってもよい。
 そして確かなもの、「本物」を求めようとする。しかし、結局その姿勢は、かつて本物を求めたときと変わらない。ポストモダンを経たニヒリズムがない。それでも「イエス!」と言う姿勢が肝要なのだと思うが、この話題についてはまた別の機会に書きたい。

ライトノベルと小説、動物と人間

 話を作品の作りに戻すが、この作品はライトノベルらしくない。むしろ小説的だ。これがさしあたっての感想だった。ライトノベルという体裁に、小説的なテーマを押し込んでいる、とも言える。

 では、このような感想の原因はなにか。
 それは、キャラクターの作りにあると言える。
 一般にアニメ・漫画の非主人公のキャラクターは動物的だ。それはつまり、キャラクターが1つの人格として、主体・主人公をまなざし対象化しないということだ。あくまでキャラクターは攻略の対象であって、主体的に行動をとり、主人公と同様に人格を持ち、主人公も1人の人間に過ぎないと相対化する存在者ではないのだ。
 小説の登場人物は、その心理が深く描かれなくとも、主人公に特権的な地位を与えない。彼・彼女らは、主人公によって単に消費される対象とはならない。ライトノベルの反対として、これを人間的と呼びたい。

 創作物において、単なる攻略対象として主人公に扱われる存在者を動物と呼び、能動的に1つの人格として、主人公を相対化する他者性を持つ存在者を人間と呼ぶ。これを踏まえて、『→ぱすてるぴんく。』のキャラクターについて述べれば、それらは人間と動物の中間である。
 動物ほど受動的で一方的に消費されはしないが、人間・人格ほど主人公を相対化しない。

 キャラクターによってもその度合いは異なる。例えば「楢山すもも」は、受動性強めの動物寄りだが、必ずしも主人公に都合良いとは限らない(いきなり引越したり消えたり)。逆に「花菱渚」は、主人公に異議申し立てをする点で能動性を持つが、メタ的にみれば逐次異議申し立てをする点で、作劇上の道具、主人公を動かすための装置に過ぎない。結果として主人公の都合に合わせて動いていることを考えれば、動物的と言える。

 個人的な感想を述べれば、すももには不満足だ。一巻の描写のみでは何ともご都合主義のキャラクターだが、かといってライトノベル的快楽を与えもしない。
 反対に、渚は主人公に対する能動性・他者性という点で興味深い。主人公によってなされる了解に対し、自身の思いの開陳により「ノー!」と言うのだ。一方的な了解・消費への異議申し立てであり、その行動は読んでいてスリリングであった。

 小説にも主人公の都合に沿うような存在者は登場するが、ライトノベルほど一方的な関係ではない。以上を踏まえ、登場人物作りという点で、やはりこの作品は小説とライトノベルの中間と感じる。

ストーリーについて

他者を知ることで

 前項後半の続きとなるが、花菱渚による主人公の相対化は面白い。緋色は、他者によらず自身によって決め、行動したいとする。そして彼はぼっちを気取る。しかし、それを渚は相対化する。

 他人の目を気にせず、というがそれは他人の目ではなく、自己が内包した(あるいは想定しえる)限りの他者のまなざしだ。真に他人の目線ではない。
緋色は「周囲」に流されて、渚と上手くいかなかったとするが、その「周囲」が明確に緋色たちを流しただろうか。たしかに中学高校のクラスの雰囲気というものは理解できる。絵も言わぬ威圧感がある。しかし、それは義務を生むものではない。「周囲」に流されるというが、それは詭弁だ。そんなものは初めから存在せず、あるのは彼の心だ。勝手に彼が「周囲」の空気を感じ、自制したのだ。だから問題は彼自身だ。その意味で、彼は「周囲」をも知らない。
 そんな緋色に花菱渚が異議申し立てをする。そして彼は、自身が「ぼっちの殻」に籠もっていたに過ぎないことを知る。結局問題は彼自身であった。真に他者のまなざしを知ることで、彼は自己を知る。

 花菱渚は人間的だが、ありえない存在者だ。こんな便利で甲斐甲斐しい他者がいるだろうか。渚としては、自身の過去を真に思い出にするための行動かもしれないが、明らかに面倒なことをしている。花菱渚はフィクションだ。

夕波檸檬は本当につまらない

 夕波檸檬というキャラクターは、作劇上の都合以上の何もしない。彼女の行動としては、すもものコミュニケーション能力の低さを目立たせ、緋色とすももの関係を吹聴し危機を起こしたくらいだ。調和への不安を抱える平均的な女子高生らしい行動しかとらず、このキャラクターである必然性がない。

 「青春」を送る人間を何種類か描くために登場したのだろうが、行動の動機や能動性において何の面白さもない。この作品のキャラクターは、動物と人間の中間だとしたが、夕波檸檬は人間的要素を持ちつつも、非常に動物的だ。しかし、動物性を活かした快楽、アニメ・漫画的な一方的に消費されるものとしての面白みもない。これが夕波檸檬のつまらなさだ。

王道な恋愛

 楢山すももと軒嶺緋色の恋は、インターネットから始まった。そして現実に会う関係となった。あとは普通に恋人らしいことをし、思春期らしく自身らの関係に悩み、愛を探す。要素としてインターネットという変わり種があるが、その性質を強く活用してはおらず、むしろクラシカルな恋愛描写だ。あまりにお作法通りで、何も不満な点がない。

 しかし、王道は満たしておけば非難されることはないが、特別に評価されるものでもない(念のために言っておくが、つまらないというマイナスの評価ではなく、特に何もないということだ)。実のところ、読んでいて面白かったのは、4章から5章の前半だ。起承転結における、転から結の前半にあたる。つまり、すももとのイチャ付きや、騒動の決着には興味を持てなかったということだ。むしろそれ以外、花菱渚の告白と「陽キャラ」によるいじりの方が面白かった。

いじられ描写のうまさ

 作中で行われるようないじりの経験はないが、まるで自身のことのように感じられる描写であった。学生に限らず、往々にして社会的な存在は考えることなしに、共感とそれによる連帯で行動する。だから、そのような相手に何を言ってもわからないし、その意味では「常識」が違う。

 しかし、疑問なのは一々性格において陰と陽の区別をしないと気が済まないのかということだ。何も主人公の性格が社交的であるとか、陰キャラは素晴らしい存在だとかといった主張をしたいのではない。陰陽の区別をせずも生きることは可能だと言いたい。区別をしたところで自身の現状は何も変わらず、一々そのようなことを考えているだけ惨めだし、無駄だ。

 いじりに関しても、陽キャラとの対話は不可能でも、何らかの抵抗は可能ではないだろうか。元々クラスで浮いていたのだから、今さら何をしてもみんなの中に入ることはないし、いじられた時点でそれは決定的だ。ならば相手やクラスとの関係性を気にせずに抵抗してもよいのではないだろうか。自分は「陰キャラ」だが、少なくとも言い返すくらいの抵抗はする。

 とはいえ、陽キャラではない、という否定神学的な自己措定をする緋色には困難であり、それが正しく「ボッチの殻」ということかもしれない。皮肉なことに全てが終わった後、他者との新たな関係の始まりはかつて否定した渚であった。

評価

 現代の恋を知るようで、異文化体験的な面白さがあった。また、各々度合いは異なるものの、キャラクターが単に主人公に消費されるに留まらないのがよい。王道の構造であるから読みやすく、不快になることはない。
 長々と書いたために評価が低いのかと言われるとそうではない。むしろ高めだ。2巻を手に取るかは未定だが、気が向いたら読みたい。

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