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正義とjustice

ドラマや漫画、メディアには「正義」という言葉があふれる。
「君と僕の正義は違う」とか「正義の味方になりたかった」とか。

そのような「正義」の用法から、倫理学や政治学で語られる正義<justice>を考えるとおかしなことになる。

正義<justice>とは、「法」「権利」「正義」という意味を持つラテン語jusから派生(jusからjudgeも派生)した語である。衝突に際し、法に基づき公平に裁きを下すこと、公平に物事をなすことがjusticeである。
メディアで語られる「正義」とは、justiceよりもむしろ信念<belief>に近い。

「君と僕のー」の場合、2者の間にある差異は、如何なる法に依るかよりも、何を理想とするかという信念にある。このようなセリフが使われる場面で、自身と相手の差異について、それぞれが合法的か、公平であるかという点で考えているのを見たことがあるだろうか。

「正義は胡散臭い」、「正義は独善だ」と思う者もいるかもしれないが、そんな者でも、他者と同様の行為をして異なった扱いをされた時は、不正だと感じるのではないだろうか。この場合に感じる不「正」の感覚は、メディアでの「正義」とはまた違うものではないだろうか。

このような日常的な感覚からも導出可能な程度、つまり即ち「等しき者は等しく扱う」正義は、形式的正義と呼ばれる。それは、不正なき状態を求めるものとしての正義である。

問題は、何において正しくあるか、公平であるかということだ。このような具体性を持つ正義を、実質的正義と呼ぶが、通俗的な正義理解はこの限りで、多少有効となる。何において、というその対象については多くの学説がある。ロールズ・ノージック・サンデルetc...。

現代の正義論と呼ばれる議論においては、この実質的正義が語られることが多い。

メディア的「正義」はむしろ、ポストモダンの言説や、メタ倫理学でなされる議論との親和性が高いように思う。