わかりみが深いことこの上ない。

私は枕草子が好きだ。清少納言さまが好きだ。古文に詳しい訳ではないが好きだ。彼女の無自覚を嫌悪し、自覚があればまあよしとしてやる、みたいな姿勢が好きだ。
なぜ私が古文が好きでも教養があるわけでもないのにこのようなことがいえるかというと「枕草子REMIX」という枕草子における清少納言の考え方や心の有様をわかりやすく解説してくれている書物を読んだからである。

清少納言さまはブスが嫌いらしい。あと服がダサい人と身分がひくい人もたいそうお嫌いな様子であった。とても辛辣である。でも嫌いなものには理由があって、「身をわきまえていない」ところがあって嫌いだという。

なんというか圧倒的わかりみが深い。
仕事できない、使えないなど聞かれてもいないのに上司の悪口を平気で言う一年目の新人とか、夜のお店の勧誘やナンパがウザかったとわざわざ報告してくる知人とか、、、何にモヤモヤするかって、客観性のなさだったりする。

この客観性っていうのは側から見たら〜に言い換えができると思う。だから"自分はこう見られる行動をしてるのだ"という自覚の有無が清少納言さまの価値判断基準なのだろう。

「私は意地悪は嫌いじゃないわ。自分が意地悪をいっている自覚があるから悪口って楽しくて盛り上がるのよね。」みたいなこともいってて、やはり自覚の有無に依る価値観だと理解した。善悪でいったら陰口は悪だと思う。よくないことだし、自分だっていわれたら傷つく。

 でも、狭いコミュニティ内での潤滑油であったりする。悪口の共有は秘密と感覚の共有につながっている。「やっぱりわたしの感覚は正しかった、言ってはいけないけれど。」この感覚が、気分の高揚をもたらすのだと思う。内容どうこうは関係なく、その時の感覚が共有されていることが嬉しいだけで、内容に対して深い意味はなんてない。陰口は酒の肴。暴飲暴食は毒だけど、ちょっとなら妙薬。たまの飲み過ぎはご愛嬌みたいな。
決して褒められたことではないけれど、大抵の人間の感覚なんてこんなもんだと思っている。この感覚をあえて言語化し、アンチもどんとこいなド直球悪口が1000年の時を超えて共感されているという事実が妙に生々しくて好きだ。
 やっぱり、みーーんな大好き♡なんてエッセイとしてうさんくさすぎる。誰かのことが好きで美しいと思うなら、誰かのことを忌み嫌う気持ちが裏にあって然りと。それをわざわざ言語化する必要があるか?とかいわれると発言を窮してしまうが、しかし読者の共感を呼ぶ文章と分析力だったのだろう。そんな才覚も実に羨ましい。

職場の研修で、自己肯定感とは自分の感覚への信頼感と近しいと講師が言っていた。
 1000年前の偉人のエッセイに共感を覚えると、なんとなく人として自分の感覚は間違ってないのでは!?と思えるから不思議だ。
清少納言さまの自己肯定感って高かったのかなぁ〜?なんて徒然なるままに取り留めのないことを考えてみたけどーーーーーーーーーーーー徒然草には続きません。


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