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【短編小説】テンプテーション・カーニバル 後編:カーニバル_6

朱莉
 生活が落ち着いたら、いつか地元に戻ってみたい。そう思ったのは次男が幼稚園に上がった頃だった。
 未熟ながらも自分の意思を持った息子たちを見ていると、地元に戻る日は近いかなと思ったりもした。
 長男には好きな子が出来たらしい。夏休みにデートに行くと。
 小学校一年生。早いのか、普通なのか分からないが、とにかく私は衝撃を受けた。
「あのね、図書館で一緒にお勉強デートする」
 まず、あんなに嫌がっていた勉強をするという発言に衝撃。
「あとね、花をプレゼントする」
 そして、庭の花になんか興味を示したことがないのに、花をプレゼントするという発言にさらに衝撃を受けた。
 息子が少しずつ自分の手を離れていくのを嬉しく思う反面、頭の中に浮かぶのは、ウツボカズラだった。

初めての息子のデートは成功と言えた。とはいえ、私もついていって、向こうのお母さんも来ていた。少し離れたところで様子を見ていたが、友達と遊んでいるのと大して変わらないように見えたが、それでも成功だ。
 しかし、これが高学年、中学生と上がっていくにつれて、私は長男のそういう場面で、思い返せば不要と言える注意をしてしまうことが増えた。
 長男は反抗期に入り、私を無視するようになった。そうなってやっと、お節介をしすぎたんだと気がついた。
 私が生きて来て味わった全てを教えてあげたかった。けそう思っていたのに、結局今は、私の言葉は届かなくなってしまった。
「母さん。ウツボカズラでも育ててみたら」
 来年に中学入学を控えた次男は私にそう言った。いつか、テレビでウツボカズラが映ったときに、私が興味を持っている素振りをしたらしい。自分では全然そんなつもりはなかったのに。
 ウツボカズラを買ってみた。私の想像よりもだいぶ小ぶりだった。
 カーニバルスプラント。食虫植物のことを英語でそういうらしい。カーニバルスは肉食という意味みたいだけど、私に馴染みはなく、リオのカーニバルとか、そんなお祭りを思い浮かべた。
 ウツボカズラが列をなして歩く姿を一瞬、思い浮かべたけどバカバカしくてやめた。
 次男は、ウツボカズラが昆虫を捕らえる瞬間を見ようとじっとしている。けど、実際にはあまりその場面はこない。普通に水と太陽の光と肥料で育つ。その小さなウツボカズラを見ていると、私は凉夏さんとの生活を思い出した。あの街に帰りたいけど、そんな余裕は意外にない。子供たちが成長したってなかなか安心はできないし。

反抗期の長男は剛とは少し会話をするようで、ウツボカズラを見てこう聞かれたらしい。
「母ちゃんがさ、なんであの植物好きなのか知ってる?」
 思えば、私は凉夏さんの話を誰にもしていなかった。
 あの街にはまだ帰れそうにない。



 吹奏楽部に入っていて、名前は多分、田辺という。通っている学校のホームページで学級通信を見て、そこで彼が吹奏楽部として写っていた。吹奏楽部の演奏風景の動画があり、そこのコメントで、この男が田辺だと推測をした。チューバを吹いているらしい。
 田辺は、凉夏が会釈をした一週間後に家に誘われていた。中で何が行われていたのかは分からない。ただ、田辺が家にいる間、浴室の電気が二度点灯したのは確かだった。
 俺は動揺していた。心臓が痛いくらい強く鳴った。充が知る前にやめさせなくてはいけないと思った。
「君、ちょっといい?」
 凉夏の家から出てくる田辺に声をかける。田辺は体をびくつかせて振り返った。俺は慎重に言葉を選び、話した。
「別に、どうこうして欲しいってわけじゃないんだ」
 目を見る。田辺はチラチラと視線が泳いでいる。
「誰なんですか」
 慣れてない威嚇しようとした声。チューバを吹いているからか、やたらよく通る声だ。なぜか俺はイラついた。多分、自分の状況を分かってない田辺の無知さにだろう。
「誰だっていいじゃないですか。ははは。あのさ、君、あの家に入って何してたの?」
 俺が質問すると、田辺は一度目を見張ったがすぐに意志のある強い視線になった。
「僕らのことをあなたに話す筋合いはないでしょう?」
「僕らってさ……」
 不甲斐ない声が出てしまった。なんと、まあ、世間知らずなガキなんだ。
 旦那に逃げられた女に遊ばれてるだけなのにな。
 急に無気力感に襲われ、自転車で颯爽と行く田辺を追いかける気になれなかった。
 次の日も、その次の日も、凉夏は田辺を家に誘い込んだ。田辺は部活を辞めたのか、来る時間も早くなっていく。

俺は、休日になると充の家に行き料理を振る舞う。放っておくとカップ麺やレトルトカレーのような簡単なものしか食べなくなるからだ。心配だからなるべく栄養のあるものを作る。他には、俺が居ない時でも食べられる漬物などを作って冷蔵庫に入れておく。
 タッパーに料理を詰めながら、田辺のことを充に話すべきなのかという問題で悩んでした。充がなぜ凉夏から離れているのかが分からないと、答えは出せそうになかった。これ以上傷ついて欲しくなかった。
 けど、訊けない。訊いてみて、答えてくれないだけならまだいい。けど、それがきっかけで、俺に対して開かれていた心の扉が閉まったとしたら?
 それを考えるだけで、少し世界が暗く感じられる。
「なあ充」
「なに?」
「いや、これ冷蔵庫の一番上に入れとくからな」
「いつもと同じ場所だよね。わかってるよ」
 充はずっと、何もしていない。残りの人生を滑空をしているようだ。鳥が広げた羽を動かさずに飛ぶように、流れる時間の上を、記憶と知識と想像力で滑空している。
 今日のディナーはステーキで、充と向かい合って座る。充は家から出たがらないから、家の中で二人だ。
「おいしいね。この肉」
 充は言う。
 凉夏に会いたくないの? と言えない。
「このソースも葉が作ったんだよね。すごいよ」
 俺は黙って充の話を聞く。
「今日、葉は静かだね」
「そんなことないぜ」
 この生活をいつまで続けるつもりなの? と言えない。

凉夏の家から、田辺が泣きながら出てきた。制服の袖に血が付いていた。
「おい、どうしたんだよ」
 思わず田辺に駆け寄る。向こうは俺に気がついても逃げようとしない。
「す、凉夏さんが、お腹を、自分のお腹を、切って、切ってて、それで俺怖くなって……」
「逃げてきたのか!」
 田辺は俺に怒鳴られると、ギュっと目を瞑った。
 モゴモゴとなにかを言っているが、聞き取れない。どうせ泣き言なんだろう。
「お前が行かないなら俺が行くからな」
 充のことを考えると黙っているわけには行かなかった。
 凉夏の家の扉を開けようとすると、田辺に押された。倒れながら、俺はアキレス腱の断裂を思い出していた。
 田辺は家の中に飛び込み、そして出てきたのは二時間だった。
「大丈夫だったのかよ」
 田辺は俺の方を見ずに言う。
「僕がいないとダメなんです」
 その言葉を聞いて、なぜか俺は全てをぶち壊したくなった。田辺は儚かった。決して報われることがない。初めて見た時の汗っかきの生命を感じさせるその姿が、より今の田辺の悲壮感を際立たせた。
 それからも田辺は凉夏の家に通い、俺はそのことを充に言えないままだった。
 凉夏がこのまま田辺と暮らして、充はこのまま俺と一緒に暮らす。それでもいいんじゃないかと考えることがあった。
 当然、そんな関係が続くはずがないのは分かっていたんだけど。
 田辺は、いつものように凉夏の家から出てきた。そして珍しく俺に挨拶をしてきた。
「あ、いつもの人だ。暇なんですね」
「暇じゃねえよ」
 昨日、この生活が続けばなんて思った矢先だ。田辺もそういうふうに考え始めていて、俺たちは仲良くなるんじゃないかって、思ってしまった。
 けど、当然そんな都合のいいことはない。
「凉夏さん、死にたいんですって」
「自分の腹を切るくらいだ。死にたいなんていうだろうな」
「でも僕、殺せなかったんです。これってダサイですか?」
「はあ? 何言ってんだよ。お前がいれば大丈夫なんだろ?」
「はは」
 田辺は珍しく笑った。

翌々日だ。初夏と言える気候だった。田辺が死んだことを林から聞いた。夜になると深海のように暗くなる公園の汚いトイレの裏で首を吊ったらしい。
 それから林はこの仕事を辞めた。なんにせよ、あの小太りな高校生は死んだ。


凉夏
 ミツコが逃げちゃった。という嘘。もちろん充さんは見抜いていたはずです。私は隣に寝ている充さんを残して、深夜に布団から起き出してことに及んだわけですから。布団に戻るまで三十分ほどかかりましたし、戻ってきた時に充さんは起きていたからです。呼吸の速度が睡眠時のタイミングと違いましたから。
 しかし、充さんはそのことで私を言及することはついにありませんでした。
 充さんはその日以降、予想通り私に対してよそよそしくなりました。
 私のことをを信じたいけど、信じられない。そういう心理になっていたと思います。そのことを思うと、私の体の内側の疼きが解消される感じがしました。

そんな絶妙な日々は、突然終わりを告げます。充さんは突然、寝ている私のお腹を殴ったのです。
 痛み。
 充さんから与えられた痛み。充さんは泣きながら私のお腹を殴ったのでした。私は、もう堪え切れないくらいの快楽が体を巡りました。それは涙として体の外側に流れ出したのです。
 私のどこがダメなのと、聞きました。充さんは泣きながら、ダメなのは僕なんだと言います。私は充さんに抱きつきました。幸せだよと充さんに言いました。その日は、充さんは震えながら眠りました。
 その時、私にまたチャンスに気がつきました。彼の性機能が一時的に回復していたのです。
 私は、充さんが私を傷つけると性機能が回復する可能性に気がついたのです。

朝日が登ると、充さんは今までのような雰囲気に戻りました。よそよそしさがなくなったのです。むしろ、いつも以上に私に優しくなりました。罪滅ぼしなのだろうと私は直感しました。
 日が落ち始めると、充さんは何かに怯えるようなそぶりを見せます。そして、深夜になると私を殴りました。
 私のことが嫌いになったのと、充さんに聞きます。充さんはそんなことないと言って、私を殴ります。私は泣きながら充さんに抱きついてみると、私の服を脱がし始めました。明らかに興奮していたのです。
 私は逃げました。本当は、逃げる必要なんてなかったのですが、あるアイデアがあったのです。それは、充さんが私から永遠に逃げられないようにするための策略でした。
 キッチンまで逃げたのです。そこには、フォークやナイフが置いてあります。充さんの目は明らかにその道具で私を傷つけることを考えていました。しかし、辞めたようです。
 が、翌日の夜になると、あっさりと私のお腹にナイフを立てました。私は絶叫すると、充さんは私と性行為を行いました。ナイフでお腹に線を引かれるたび、私の内側にあった疼きは直接掻き出されました。
 充さんは壊れてしまいました。私が壊したのです。私以外が充さんを壊すことは堪えられません。朝はとても優しい充さん。夜は私に対する殺意で泣きながら射精する充さん。その二つの充さんを繋ぐのが、私なのです。
 この生活がずっと続けばいいと考えていました。しかし、そうはうまくは行きません。

いつもより、ナイフが深く入り込んできたことがありました。その頃は私のお腹は傷だらけで充さんの殺意のパレットになっていました。そして充さんは射精します。
 いつもなら、そこで終わりのはずなのに、その日は少し様子が違いました。彼は私の中でなおも興奮し続けていたのです。
 彼は、私のお腹にいつもより深くナイフを入れると、それを動かします。上に上に。へそのあたりまで来ました。そこはまだ傷がないところで、新鮮な神経は余計に痛みます。我慢できない叫びが漏れました。
 充さんはそこでナイフを私から外しました。それを掲げています。私を睨みつけていました。そして口元は笑っています。

そのナイフが、閃光のような速さで私に振り下ろされました。

時間が止まったように感じました。ああ。とうとう充さんは私を殺すんだと思いました。私は全身の血の気がひいて、耐えがたい吐き気を覚えました。しかし、実際にそのナイフは私に突き刺さることはありませんでした。
 充さんが、まるで二人羽織をしているかのように動き、ナイフは直前でどこか別のところに投げ飛ばされました。
 私たちは震えて眠りました。

翌日がやってきて、充さんは私の元から逃げました。それで分かったのです。充さんは本気で私を殺そうとしていたことに。だからこそ、私を殺さないために私から逃げたのでしょう。
 もし、充さんが、今日もいつもと同じように私の隣にいたのならば、あっさりと私を殺したのでしょう。いつもの行為と同じような感じで。そう思うと、体の中に疼きが生まれました。
 私から離れてしまった充さんですが、必ず戻ってくるはずです。夜の充さんが私のことを快楽のために殺そうとするように、昼の充さんは私のことを愛し、守ってくれるからです。
 充さんは来ませんでしたが、別の気になる人を見るようになりました。きっと、あの人が充さんの差し金なのでしょうね。

鳥居ぴぴき 1994年5月17日生まれ 思いつきで、文章書いてます。