私がyahooニュースを見に行きたくない理由

私は新聞を読まない。昔から新聞を取っていた家でもない。新しい情報は野球中継の間に流れるニュース番組ぐらいだった。文章と出会わないように逃げて生活して気がする。今となってもその気質は変わらない。学問を学問として生業にしておらず、偉そうに語るだけ。私が私である思考を深め表現するができない。

しかし、昔から、世間の情報を知りたくないと思ったこともない。その反対に、さわりの部分ぐらいは知りたいと思う性分で、どこにでもいる軽薄な男である。

大学生の時、スマートフォンが登場する。知りたいことを簡単に(作業も内容も)調べられる便利もの。こんな私には最適な機械である。軽薄という悲観的思考を、洗練された印象に変化させる。私にとって住みにくい世界が明るく見えた時期であった。

そして、何か困ればスマートフォンで、Googleや Yahooといった検索エンジンに頼ればいいのである。そんな作業を続けて10年ぐらいは生きれた。すごく過ごしやすかった。学生時代に感じた学力差で階層化された段差が平坦になったように感じた。全てのものを理解できたような気になったし、それでいいとも思っていた。

それは、今も否定することではない。自分のわかる範囲でしか理解できることは変わらない。

しかし、便利すぎるこの状況に不便さを感じる。Yahooニュースをひらけば、見出しのみで内容がわかってしまう。下にスクロールしていけば自分が見たニュースの類似ばかりが掲載されていく。機械が選び、機械が喜んでいる世界に嫌気がさしてきた。

「私が選ぼうとしているものは、事前に機械が選んでいて、あたかも私が選んだように仕向けられている。」「これは誰の人生だ?」  


今日、六甲山のガーデンテラスにあるシダレミュージアムに行った。そこに小さなジップラインがある。それもアートの一部なので、ヒトが乗るタイヤの部分が、漫画のポップみたいなフォントで「人生」と書いてあった。「人生」に人が乗って流れていくのである。「人生なんてのるもんじゃねぇ」とよくわからないことを思い、恥ずかしくて乗れなかった。

他のアート作品をみて、つくづくアートって洞察力だよなって思う。無駄に描いたり作ったりしてなくて、しっかりとしかコンセプトが設定されている。それを文章で表現してされているのだ。アートも結局文章なんだな。


疲れて帰ってYahooニュースを見ようとしていた自分に、さらに嫌気がさす。
誰かの書いたもので満足し、誰かの選んだ自分ぽいものを読んで、自分?の人生を歩く。これもまた恥ずかしいと思って乗らないつもりなのかもしれない。
 

さて。ここからどうするか。ここからがスタート。
多分その辺にいる小中学生に比べても文章を書く力は弱い。まずはここで観察したことを書こう。できればyahooニュースじゃなくて活字を読みたい。地方紙でもいいなあ。自分の人生を豊かにするものに目を通していたい。

物理的な時間は経過してもいい。実質的な時間が生まれるのであれば。


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