見出し画像

私が文を書く理由


私は書くのが苦手だ。いや。書くことも話すことも苦手だ。元々何かを表現することができなくて妬ましくも思うこともあった。

大学時代に、就職試験のために小論文を添削してもらえる講義があった。自分なりに必死に書いてはみたが、教授からは「君の文は読みにくいし、何が言いたいか分からない。どこを添削していいかもわからない」と言われる始末。

どこを添削して良いか分からないと言われても俺も分からない。教授には見放されたわけで、それでいて一人で書けるかと言えば書けないわけで。結局、就職の小論文は国公立に通う友達と共に考えて書いてもらった。文が完成した時、自分の文ではないのに、自分の思いがうまく描かれていることに感動したのを覚えている。うまく書けた文は何度読んでも気持ちが良いものだったが自分の文ではない。

私が書いてない私の小論文のおかげで、就職することができた。その就職先でも、内容がうまく表現している心のこもった文章をいっぱい見てきた。その度に“自分にはこんな文章書けないなあ”と感じるばかり。


そんな経験の積み重ねで文を書くことに拒絶反応を示している。仕事でどうしても書かなければならない文章も過去のデータから引用した。それで事足りていた。逆に文にしてしまえば、自分の思いとは裏腹に文が一人歩きを始めることもある。そのため当たり障りのない短文を羅列していた。

「それで事足りる」と思っていた。しかしだ。考えれば考えるほど、この世の中には言葉しか存在しないのではないかと思う。物を生む力をもつ言葉を少しだけでも使うことができれば……この生きづらさから解消されるのでないだろうか。いや。この生きづらさを表現することで自分を納得させられるのでないか。と想像する。

だからこそ、書いてみようと思ったのだ。誰のためでもなく自分のために。続ければ何か門戸が開くはずだと。

実は少し自分に期待している自分がいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?