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自分はノンバイナリーなんだろうなと思う経験と根拠

自分が社会的な男性と女性の枠組みのどちらにも当てはまらないと最初に気がついたのは4-5歳の時だった。

家族でよく行った焼肉屋では未就学児はおもちゃをもらえる。
私はそのときバレエの発表会の後で、強く固めたシニョンスタイルにワンピースを着ていた。店員さんは迷わずキラキラしたおんなのこ向けのおもちゃ箱を持ってきた。
私はおとこのこ向けの仮面ライダーのグッズが欲しかったので店員さんにねだったが、女の子にはおんなのこのおもちゃしかあげられないようで断られた。
私は欲しくもないペンダントを持って帰った。

ある時は髪の毛をバッサリ切って、剣道の試合の後にジャージスタイルでその焼肉屋さんに行った。店員さんはおとこのこ向けのおもちゃ箱を持ってきた。
同席している祖父が「この子は女の子だ!」と主張し、店員さんは平身低頭しおんなのこ向けの箱を持ってきた。
私は欲しくもないブレスレッドを持って帰った。

ただおとこのこ向けのおもちゃが好きだったのではなく、おんなのこ向けの玩具箱に欲しいものがなかっただけ。
プリキュアも仮面ライダーもどちらも好きだった。
女の子らしいものも、男の子らしいもののどちらにも好きなものと嫌いなものがあった。
こうして私は自分が社会的な女と男、どちらにも当てはまらないこと薄々勘付き始めた。

中学生のとき部活の先輩に恋をした。
言葉に一貫性があり、さまざまな文化をよく知る髪の綺麗な活発な女性だった。
高校の時同級生に恋をした。
大人しいが私の知らないことをたくさん教えてくれて、強い芯をもつ柔らかい女性だった。
でも私は中学も高校も私を好いてくれる男性に告白され、彼らのことを心から好きになった。

それらの経験から、たまたまこれまで付き合ってきたのが男性だっただけで自分は男女にかかわらず個人として相手が好きなことを自覚していた。
これまで5人の恋人がいたが、別れた原因は大体同じである。私に女性性を押し付け、個人として尊重していないような行動や言動の集積が溢れ、これ以上議論をしても平行線になると感じたからだ。

これまで複数の男性に告白されたが、容姿が普通な私が何故か好かれやすかったのは全ての人を個人として認識していたことが大きいと思う。
私の中に男女の違いはなかったので、女性と仲良くするのと全く同じ感覚で男性と仲良くしていた。そうすると、男性は自分に好意があると思い好意を持ち、告白してくる。
私に告白をしてくれた男性の中には、私を好きになった理由が「初めて30分以上話した女性であったから」と断言した人もいた。

私は男性でも女性でもない個人として見てもらいたかったし全ての人をそう見ていたし、そのように関わり合いたかった。
ただそのような考えが一般的ではないことも、そのような行動をすると誤解が生まれてしまうことも経験的に重々承知していた。

2021年6月に、インスタライブで歌手の宇多田ヒカルさんが自身の性を「ノンバイナリー」であると認識していることを公表した。

この件から自身の男性女性どちらにも所属していない感覚の名前を知り、自分もそうであると自認した。だからといって何かが変わるわけでもないが。

サイエンスの世界では、性別は二項対立できる物ではなく連続する性の表現型があるとの考えが提唱され始めている。

本noteでは示さないが、そのような考えを裏付ける論文も多く発表されている。

台湾の行政院政務委員であるオードリー・タンさんは自身の書籍「オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る」の中で、思春期に男性ホルモンが有意になるタイミングでそのレベルが上昇しなかったと語っており、のちのち「性別なし」と自称している。

このように、男女どちらに区分されようともしっくり来ず、個人として生きているノンバイナリーは多くいるのではないかと思う。

現代はこのような性別が2つのみであるという考えが改まり、LGBTQとして知られるセクシャリティをより細かく区分する言葉も生まれている。

私はここではQに区分されるのでろう。

以上のように性別にバリエーションのある可能性が科学的にも存在し、実際にそれを自覚する人間もおり、それを支持する考えもあることを紹介した。

ただこのようなLGBTQという枠組みやノンバイナリーという言葉を見るたびに思うのは、もっと人と人とが個人として認められて生きられないかということである。
細かく区別して人の所属をわかりやすくすることによって得するのは統計学を用いて社会を調べる時くらいであろう。
個人と個人とが相対するときには、相手がどの区分に属するかを考えずに全身をかけたコミュニケーションで向き合えたら全ての人が生きやすくなるのではないかと思う。
そのためには個々人に明確な文化、思想、経験がある必要がでてくるし、人と相対するときのエネルギーは今の何十倍も必要であろう。何も考えず生きることができない世界にはなるとは思う。
でもそうなったらいいなと思う。

とくにこのnoteで何か社会に物申したいとか、誰かに自分のマイノリティを認めて欲しいとか、そういう気持ちは一切ない。
なんとなく、どこかの人間のもやもやを聞いてくれてありがとう。

それでは、また。



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