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ネタバレ雑感|映画『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)

シャンタル・アケルマン監督作品、初鑑賞。監督についても、作品の内容についても、一切の前知識を入れずに臨んだ。なんなら上映時間も「長め」であるとしか知らなかったので、198分の数字は映画館を出てから認識した。体感は150分くらいだったので衝撃。
※上映時間はWebサイトによって198分・200分・201分と表記がまちまち

一人の女性の生活を三日間、固定カメラで観測し続ける、挑戦的かつ実験的な作り。序盤には戸惑いと眠気を覚えながらも、徐々に「日常の動作」に娯楽的快楽を見出し、「これは新たな映画体験だ!しかも映画でしか成し得ない表現だ!」と感動して楽しんでいた。ところが予期しなかった不穏な気配が漂い始め(序盤から“奥の部屋”の毒は回っていたけど)、家に届いた荷物を解くため持ち出した鋏を寝室に置いた瞬間全てを察し激しい動悸に襲われ、そのまま衝撃と絶望のラストを迎えた。つまり心の底から楽しんだ。ど傑作。

序盤に見出した娯楽的快楽とは、人の日常の動作がいかに多彩かつ繊細で、その一つ一つが何らかの意味を内包しているかの再発見、気付きである。また、自分が日々の生活で無意識にこなしている作業や動作が、いかに多く複雑であるかを発見する感動もあった。例えばコーヒーを淹れる際に、挽いた豆にお湯を注ぐが、一度めはわずか。少し蒸らした後に、さらに多くのお湯を注ぎ込む。細かいアクションながら、その一つ一つに意味がある。

そのほか、靴磨きにしても、皿洗いにしても、動作のすべてに前述のような再発見があり、国や時代や文化を超越して、自分たちがするそれと何ら変わりがないことにもささやかな感動があった。そして、一般的な映画においてこうした動作がいかに省略されているかもよくわかった。だから「当たり前なはずなのに新鮮」の感動がある。芸人があるあるネタとして日常に溶け込んだ事象を抽出し表現することで、共感と笑いに昇華される感覚に近いかもしれない。

ただ、この一日目の動作や段取りが、あまりにきっちり整然としていることがどうも引っかかる。部屋の電気を律儀に消したり、ドアを開け閉めしたりする動作。日々のルーティーンに則った行動の移行。単にジャンヌの生活や性格を表現するための演出かと思いきや、そればかりでなく二日目にはこれが全て伏線であるとわかり、驚嘆することになる。

二日目の売春以降、三日目まで、この一日目の行動やルーティーンが徐々に崩壊していくのだ。ジャンヌの心の乱れが、その動作の乱れだけで手に取るようにわかる。電気の消し忘れ、ドアの閉め忘れ、髪が乱れている、ボタンが外れている、皿洗いですすぎが足りない、コーヒーが不味い、乳児が泣き止まない、行きつけのカフェの定位置の席が埋まっている、などなど。スクリーンを見つめる私の精神もジャンヌと同様追い込まれていった。

そして、劇中の時間が流れるにつれ、この映画が「一人の人」でなく、「一人の女性」が追い込まれる様子を描いた作品であることがよくわかる。夫に先立たれ、母として一人で子を育て、必要な生活費を稼ぐために体を売っている。公開当時の1975年のベルギーの社会背景について私は明るくないが、世界規模で考えても女性の地位は低かったはずで、その告発的な意味合いもあったように思える。女性監督が撮った「女性が社会的に優位でないために、罪を犯すorバッドエンドを迎える映画」として、バーバラ・ローデン『WANDA/ワンダ』、アニエス・ヴァルダ『冬の旅』なども想起した。

また、本作はジャガイモ映画でもある(貧しさの描写の一つ、かも知れないけれど)。ジャガイモ映画と言ってパッと思い出すのは、タル・ベーラ『ニーチェの馬』とリドリー・スコット『オデッセイ』で、私は偶然にもどちらも好きだ。その上、ジャガイモも大好きだ。なんらかの因果があるやも知れない。ちなみに『オデッセイ』が142分、『ニーチェの馬』が154分、本作が200分前後。愛すべきジャガイモ映画は長尺でもある。ジャガイモ映画は長ければ長いほどありがたい。また新たな傑作ジャガイモ映画の登場に期待しつつ感想を締め括る。

(鑑賞日:2023年4月11日、劇場:ヒューマントラストシネマ渋谷)

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