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レヴィナス『全体性と無限』を読む(5) ー 意味、言語、思考

1.範囲

藤岡訳『全体性と無限』p.362 - p.370
第Ⅲ部 顔と外部性
B 顔と倫理
4 言説が意義を創設する Le discours instaure la signification

2.解釈

言語は理性的思考が働くための条件である。言語が理性的思考に与えるのは、存在内での始まりであり、発話する者の顔のうちでの意義の最初の自己同一性である。発話する者とは、言い換えれば、自分自身の像や言葉による記号の両義性をたえず解体しながら現前する者である。言語は思考の条件である。物理的物質性をまとった言語ではなく、他人に対する〈同〉の態度としての言語である。

Le langage conditionne ainsi le fonctionnement de la pensée raisonnable : il lui donne un commencent dans l'être, une première identité de signification dans le visage de celui qui parle, c'est-à-dire qui se présente en défaisant, sans cesse, l'équivoque de sa propre image, de ses signes verbaux. Le langage conditionne la pensée : non pas le langage dans sa matérialité physique, mais comme une attitude du Même à l'égard d'autrui, …

p.362

前回の解釈によれば、言語は形式的な私と他者(顔)の関係に真の意味での「始まり」をもたらす。デカルト的な無限とコギトの関係は「神秘的関係」と形容されていた。他方、顔との倫理的関係は、言語によって担保される非暴力の関係であり、理性的関係である。言語が理性的思考の条件であるとはそのような意味においてである。 「発話する者」とは、形式的な言語ではなく、真に他者と私の関係を始める者である。形式的な記号体系のうちで構成された自己同一性を解体しつつ現前する、そのような他者である。言語にもとづく倫理的関係は、他者と私を縛られず孤絶した関係を維持する。

言語の第一の事実とみなされる受肉は、それが成し遂げる存在論的構造を指し示しているのでなかったら、言語を活動性に同化することになってしまうだろうし、思考を身体性に延長したものと、《私は考える》を《私はできる》に延長したものと同化することになってしまうだろう。思考から身体性への、《私は考える》から《私はできる》への延長は、疑いなく固有身体ないし受肉した思考という範疇の原型として役立ってきたものであり、それがいまも一部の現代哲学を支配している。

…l'incarnation prise pour fait premier du langage, sans indication de la structure ontologique qu'elle accomplit, assimilerait le langage à l'activité, à ce prolongement de la pensée en corporéité, du 〈je pense〉 en 〈je peux〉, qui avait certainement servi de prototype à la catégorie du corps propre ou de la pensée incarnée qui domine une partie de la philosophie contenporaine.

p.363

ここでいう「受肉」とは、言語は思考の反映物として捉えらている事態を示しているように思われる。言い換えれば、言語は思考の従属物、副産物にすぎないものとして二次的に扱われるのだ。もし思考の延長のさきに身体があるのだとしたら、すべてが科学的視点で説明できてしまうことになる。思考もまた身体の一部となり、要するに、すべては生理学的な説明によって完結してしまう。私たちの日常的な行為についても同様である。身体とそこから生み出される行為をがすべて生理学的に説明可能だとすれば、思考特有の領域も、あるいは身体特有の領域も存在しないことになる。このような言語理論が現代哲学の一部では支持されていることについて、レヴィナスは批判しているのでないだろうか。

本書が提示しているテーゼは、言語と活動性、表出と労働を徹底的に分けることにある。言語にはあらゆる実践的な側面があり、その重要性を過小評価することはできないが、このことには変わりがない。

La thèse présentée ici consiste à séparer radicalement langage et activité, expression et trvail, marglé tout le côté practique du langage, dont on ne saurait sous-estimer l'importance.

同上

思考→言語→身体→行為といった、因果論的な一元的説明をレヴィナスは批判する。レヴィナスは、現代哲学(特にハイデガーの存在論)が抱える諸問題の解決の糸口として、デカルト的な心身二元論(精神と身体の峻別)を再評価しているのではないだろうか。だから、本書では、「言語と活動性、表出と労働を徹底的に分けること」が一つの重要な主題となる。

言語をめぐる現代の哲学的探究は、思考と発話が奥深い仕方で連帯しているという考えを身近なものにした。なかでも、メルロ=ポンティは誰よりも見事に次のことを示した。すなわち、発話するまえに発話を思考するような脱受肉化した思考、発話の世界を構成し、それを世界に付け加えるような思考――後者の世界の方は、つねに超越論的なものである操作を介して、あらかじめ諸々の意義で構成されている――こうした思考などというものは神話である、というのだ。

Les recherches modernes de la philosophie du langage ont rendu familière l'idée d'une solidarité profonde entre la pensée et la parole. Merleau-Ponty, entre autres, et mieux que d'autres, montra que la pensée constituant le monde de la parole, l'adjoignant au monde, -- préalablement constitué de signications, dans une opération toujours transcendantale - était un mythe.

 p.364 - p.365

レヴィナスは、メルロ=ポンティが、言語は「受肉化した思考」すなわち思考の結果ないし副産物として捉える見方は「神話である」と批判したことを一応は高く評価しているようだ。思考から発話(言語)が生まれるわけではない。思考と言語はそのような単線的に関わっているのではなく、より「奥深い仕方で連帯している」のである。しかしながら、レヴィナスはメルロ=ポンティの「身体の志向性」にもとづく言語論に満足しているわけではない。そこで次のように主張する。

記号による媒介が意義をつくり出すのではなく、意義(対面がその本源的な出来事である)の方が記号の機能を可能にするのだ。言語の本源的な本質は、この本質を私や他者たちに曝露する身体的操作、すなわち言語に訴えかけることで思考を築きあげる身体的操作のなかに探し求めるべきではなく、意味の現前化〔=提示〕のなかに探し求めるべきである。

Ce n'est pas la médiation du signe qui fait la signification, mais c'est la signification (dont l'événement original est le face à face) qui rend la fonction du signe possible. L'essence originelle du langage ne doit pas être cherchée dans l'operation corporelle qui la dévoile à moi et aux autres et qui dans le recours du langage, édifie une pensée, mais dans la présentation du sens.

p.366

言語が意味をつくりだすのではなく、逆に、意味が言語を可能にするという。メルロ=ポンティはたしかに身体と言語の関係を主題化し言語論に新たな地平をもたらした。しかし、それでもなお、言語の本質については謎が残る。レヴィナスは言語に先立つものとして「意味」を呈示している。

意義の存在とは、構成する自由そのものを倫理的関係のうちで問いただすことに存するのだ。意味とは他人の顔であって、語に訴えかけることの一切はすでに言語という本源的な対面の内部に場を占めている。

L'être de la signification consiste à mettre en question dans une relation étique la liberté constituante elle-même. Le sens c'est la visage d'autrui et tout recours au mot se place déjà à l'intérieur du face à face originel du langage.


意義とは〈無限〉である。だが、〈無限〉は超越論的思考や有意味な活動性に対してさえ現前するわけではなく、〈他人〉において現前する。〈無限〉は、私に面と向かい、私を問いただし、無限であるというその本質存在によって、私に義務を負わせる。意義と呼ばれるこの「なにか」は、言語とともに存在内に出現する。言語の本質とは〈他人〉との関係だからである。

La signification -- c'est l'inifini, mais ne se présente pas à une pensée transcendantale, ni même à l'activité sensée, mais en Autrui; il me fait face et me met en question et m'oblige de par son essence d'infini. Ce 《quelque chose》 que l'on appelle signification surgit dans l'être avec le langage, parce que l'essence du langage est la relation avec Autrui.

同上

思考の基盤は言語にある。そして、意味はその言語よりもさらに先行している。レヴィナスのいう意味とは、他人の顔であり無限である。他人が私の自由を問いただす。そして義務を課す。レヴィナスの倫理の起源はこのような「意味の現前化」なのである。

社会の多元的様態が理性の条件ということになるだろう。社会の多元的様態とは、〈理性〉が創設するような私のうちなる《非人称的なもの》ではなく、社会が可能な〈私自身〉である。〈私自身〉は分離したものとして享受のなかに出現するものだが、無限――無限の無限性は「面前」として成就する――が存在しうるためには、〈私自身〉の分離それ自体が必要だったのである。
Il en serait la condition. Ce n'est pas l'impersonnel en moi que la Raison instaurerait mais un Moi-même capable de société, surgi dans la jouissance, comme séparé, mais dont la séparation fut elle-même nécessarie pour que l'infini -- et son infinitude s'accomplit comme l'《 en face》 -- puisse être.

p.370

全体性の暴力に飲み込まれることなく、一人一人がみずからに固有の意味をもちながら生きること。このような「社会の多元的様態」をレヴィナスは構想しているようだ。そして、この社会様態には〈私自身〉の「分離」が必要なのだ。無限はこの分離を可能にする。私と他者は無限に離れている。私たちの間には決して埋めることのできない深淵が横たわっている。絶望的な距離に違いない。では、私たちが倫理的関係のうちで共生していく方途は閉ざされているのだろうか?そうではない。レヴィナスはむしろ、無限による分離こそが「社会の多元的様態」を可能にするという。無限を、他者の顔を受け入れるには理性が必要である。この理性が共生社会の条件なのである。

3.まとめ

思考と言語の関係を一元的に説明する現代哲学(特にハイデガーの存在論を意識しているだろう)に対し、レヴィナスは言語、そしてそれに先立つ意味の観点から批判している。言語は私と他者の間における倫理的関係、真の意味での社会的共生を開始する契機と考えているようだ。言語的関係、倫理的関係を可能にするのは、他者の顔、すなわち無限である。無限に隔てられ分離されているからこそ、私と他者は「縛られず孤絶した関係」において共生可能なのである。


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