レヴィナス『全体性と無限』を読む(2) ー デカルト的無限への回帰
1.範囲
藤岡訳『全体性と無限』p.342 - p.349
第Ⅲ部 顔と外部性
B 顔と倫理
1 顔と無限
2.解釈
引用にたいしてメモを付すかたちで書いていく。(なお、ほとんど思いつきで書いており、公開にあたって推敲もしていないので、誤字脱字、雑な解釈等々あると思いますが、ご容赦いただけますと幸いです。)
無限としての顔について説明される。顔はまず「了解されないもの」として、私たちのまえに現前する。「了解」というのはハイデガーにおける「存在了解」を指していると思われる。
また顔は、視覚や触覚といった認識から逃れるものとしても説明される。視覚によって対象は「見られる」。触覚によって対象は「掴まれる(掌握される)」。いずれも対象の他性を我有化してしまう。そのような我有化を逃れるものとして顔は説明される。
顔との関係、すなわち〈同〉と〈他〉が「縛られず孤絶している」関係を取り結ぶのは「言語」にほかならない。言語は〈同〉と〈他〉をひとつの統一性に回収するのではなく、むしろそれぞれの「絶対的差異」を創設するような働きをもつ。言語のこのような形式的機能によって、〈他〉の「聖潔性」が告げられるのである。
「無限」はデカルトからレヴィナスが継承した概念である。これまでもカントからハイデガーに至るまで無限は様々に語られるが、そのいずれも「反デカルト的」である。というのも、その系譜において定義される無限は、「有限」を前提として、消極的に定義されているからだ。
ヘーゲルもたしかに無限を肯定的に捉えるものの、しかしその無限は「一切の多様性を排除」するものである。レヴィナスはデカルト的な無限に立ち返ることで、〈同〉にたいする無限の「先行性」と「外部性」が可能になるという。
3.疑問点
「無限の観念」が「経験の最たるもの」とは一体どういう意味なのだろうか?「ア・プリオリな下地」というのは、カントを意識のしての表現なのだろうが、アプリオリとは、私たちの主観的経験をそもそも可能にする基礎条件(先験的条件)を指している。レヴィナスは無限をアプリオリな地点よりもさらに根源的な位置にまで押し進めようとしているのだろうか。それゆえに、経験を可能にするより根源的なものとして「無限」を強調しているのだろうか?正直、よくわからない。レヴィナスが「経験」をどう考えているのか?
4.まとめ
レヴィナスはデカルト的「無限」の概念から、「顔」や顔との関係を取り結ぶ「言語」の概念を取り出しているように思われる。これまでも無限の概念は主題に上がってはいたものの、デカルトのように、主体に対する無限の先行性・外部性を肯定的に捉える者はいなかった。レヴィナスはその意味ですぐれてデカルト的であるといえるのではないだろうか。