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レヴィナス『全体性と無限』を読む(2) ー デカルト的無限への回帰

1.範囲

藤岡訳『全体性と無限』p.342 - p.349
第Ⅲ部 顔と外部性
B 顔と倫理
1 顔と無限

2.解釈

引用にたいしてメモを付すかたちで書いていく。(なお、ほとんど思いつきで書いており、公開にあたって推敲もしていないので、誤字脱字、雑な解釈等々あると思いますが、ご容赦いただけますと幸いです。)

顔は包含されることを拒みながら現前している。この意味では、顔は了解されえない、言い換えれば、包含されえないものであるだろう。見られもせず、触られもしない――というのも、視覚的ないし触覚的な感覚においては、自我の自己同一性が対象の他性を包括し、そうして対象はまさに内容[=包含されたもの]となるからだ。

p.343

無限としての顔について説明される。顔はまず「了解されないもの」として、私たちのまえに現前する。「了解」というのはハイデガーにおける「存在了解」を指していると思われる。

また顔は、視覚や触覚といった認識から逃れるものとしても説明される。視覚によって対象は「見られる」。触覚によって対象は「掴まれる(掌握される)」。いずれも対象の他性を我有化してしまう。そのような我有化を逃れるものとして顔は説明される。


形式論理の用語では考えられない絶対的差異を創設するのは、ただ言語のみである。言語は、類の統一性を断ち切るような諸項のあいだの関係を成し遂げる。諸項、対話者たちは、関係に縛られず孤絶している、あるいは関係のうちにあって絶対的な[=縛られず孤絶した]ままであり続ける。もしかすると言語は、存在の連続性ないし歴史の連続性を断ち切る権能そのものとして定義されるかもしれない。

p.344

言語がもつ形式的構造は、〈他人〉の倫理的な不可侵性を、そして、いかなる「ヌミノーゼ」の残り香もない「他人の」聖潔性を告げているのである。

同上

顔との関係、すなわち〈同〉と〈他〉が「縛られず孤絶している」関係を取り結ぶのは「言語」にほかならない。言語は〈同〉と〈他〉をひとつの統一性に回収するのではなく、むしろそれぞれの「絶対的差異」を創設するような働きをもつ。言語のこのような形式的機能によって、〈他〉の「聖潔性」が告げられるのである。


無限の観念、すなわち《より少ないもの》に包含された《無限により多いもの》は、具体的には顔との関係というかたちをとって生起する。そして、〈他〉の外部性は、ただ無限の観念によってのみ維持される。

p.346

〈他者〉、絶対的に《他なるもの》――〈他人〉――は、〈同〉の自由に制限を加えるわけではない。〈同〉を責任へと呼びかけることで、〈他人〉は〈同〉の自由を創設し、それを正当化するのだ。顔としての他者との関係によって、アレルギーが癒される。他者との関係は、欲望であり、受け取られた教えであり、言説という平和的な対峙である。デカルト的な無限の概念――分離した存在のなかに無限を置いた「無限の観念」に――立ち戻ることで私たちが心にとどめておくのは、無限がもつ肯定性、一切の有限的思考や《有限なもの》の思考に対する無限の先行性、そして《有限なもの》に対する無限の外部性である。これこそが分離した存在の可能性だったのだ。無限の観念、有限な思考をその内容が溢れ出ること――これによって、思考と、その収容能力を超えたものとの関係、毀損されることなく思考がたえず学びとるものとの関係が実効的なものになる。これこそが、私たちが顔の迎え入れと呼ぶ状況である。

p.348 -p.349

「無限」はデカルトからレヴィナスが継承した概念である。これまでもカントからハイデガーに至るまで無限は様々に語られるが、そのいずれも「反デカルト的」である。というのも、その系譜において定義される無限は、「有限」を前提として、消極的に定義されているからだ。
ヘーゲルもたしかに無限を肯定的に捉えるものの、しかしその無限は「一切の多様性を排除」するものである。レヴィナスはデカルト的な無限に立ち返ることで、〈同〉にたいする無限の「先行性」と「外部性」が可能になるという。

3.疑問点

無限の観念は私たちのア・プリオリな下地からやって来るのではなく、だからこそ無限の観念とは経験の最たるものなのである。

p.347

「無限の観念」が「経験の最たるもの」とは一体どういう意味なのだろうか?「ア・プリオリな下地」というのは、カントを意識のしての表現なのだろうが、アプリオリとは、私たちの主観的経験をそもそも可能にする基礎条件(先験的条件)を指している。レヴィナスは無限をアプリオリな地点よりもさらに根源的な位置にまで押し進めようとしているのだろうか。それゆえに、経験を可能にするより根源的なものとして「無限」を強調しているのだろうか?正直、よくわからない。レヴィナスが「経験」をどう考えているのか?

4.まとめ

レヴィナスはデカルト的「無限」の概念から、「顔」や顔との関係を取り結ぶ「言語」の概念を取り出しているように思われる。これまでも無限の概念は主題に上がってはいたものの、デカルトのように、主体に対する無限の先行性・外部性を肯定的に捉える者はいなかった。レヴィナスはその意味ですぐれてデカルト的であるといえるのではないだろうか。


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