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たましいの旅~序章~


めぐりめぐる。

タマシイを、みたことはない。
でも、長い尾があって、ぐるぐると螺旋を描きながら、ふわふわ飛んでいるイメージはずっともっている。
これは自分の記憶の中なのか。
それとも誰かの想いの中なのか。
一回だけじゃない。
きっと何度かぐるぐるしている。
その魂にふさわしいカラダをくれたのは神さまであって。
魂はいつ、生まれたんだろう。
何を求めて、ぐるぐるしているんだろう。

地上に遊びに来た感覚。

子どものころから少し、変わった子。
想像したり空想の世界で生きている時間が一番楽しい。
ふと現実の生活を前にしたとき、まるで画面越しに見ているかのような感覚に陥ることがある。
中学生くらいからこの感覚は強くて
○○である自分、をまるで演じているような、別の自分をみているような、俯瞰して感じているようなところがどこかあって。

大人になった今もそれはあまり変わらない。
ふとした時、お化粧してヒールを履いて出かけているときや、満員電車に乗っているときも、ふと、「大人ごっこ」しているみたい、とくすくす笑いたくなることがある。
なんか、嘘っこみたい。全部全部。
いろんな人に会って、お酒を飲んで騒いでいても。
舞台に立ったり、人前で演説したりしても。
不思議だけどなんか、今ここで起きていることを少し離れたところで見ている自分がいつもいる。

その私の感覚はまるで「地上に遊びに来ている」というような感じ。

ときめきが焦点。

そんな私が唯一、自分の器に帰ってくるような感覚があるのが「ときめいた」とき。例えばそれは、モノに対してのこともあるし、言葉に対してのこともあるし、人に対することもある。
恋愛なんて最たるもので、「恋愛至上主義者」などと呼ばれていたのはきっとそのせい。
ドキドキして、体中の血が、細胞が、しびれたように感じるあの感覚。
私はいつも、常に、「ときめき」を焦点に、ものごとを選んできたのかもしれない。
そしてその「ときめき」を求める思いの強さで、ここまで生きてきたのかもしれない。

いわゆるビビッとくる出会いはたくさんしてきたし、いつの間にかすごく惹かれていたひともいる。
でも、うまくいかない恋愛もたくさんあった。
間違いだったかなという選択も。
それでも、いつも探している。
のんびり浮遊している魂がぎゅっと輪郭を取り戻し、覚醒する瞬間を。

魂のミッション。

モノも。
ひとも。
言葉も。

どうやら私の魂の使命は「愛する」こと。
「愛」は常に原動力。
愛を注ぐ「仕事」を、愛を注ぐ「相手」をいつも探している。
魂も心もまるで無防備な私はなんどもなんども転んだり傷つく。
でもあまり多くのもので覆ってしまうと、わからなくなるから。
「感じるまま」にいないと多くのことがほこりとなって積もって、身動きが取れなくなるから。

これは、そんな私のタマシイの旅のお話。




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