2019京都大学/国語/第一問/解答解説
【2019京都大学/国語/第一問/解答解説】
〈本文理解〉
出典は金森修『科学思想史の哲学』。
①~③段落。現代イタリアの重要な思想家、アガンベンには「インファンティアと歴史」という論攷がある。その冒頭近くに極めて興味深い指摘がなされている。常識的な理解では、十七世紀前後に西欧で近代科学が生まれたのは、それまで〈書斎〉で観念を振り回しては世界を理解していたつもりになっていた人間が、実際に〈外〉に出て物事をしっかりと見るようになったからだ。観念から経験へ。それこそが〈科学の科学性〉を保証する。──アガンベンは、それをほぼ逆転させる。彼に言わせれば、「事態は遥かに複雑なのだ」(傍線部(1))。それは、今述べたばかりの〈常識〉とは、むしろ逆方向を向いている。近代科学がその実定的科学性に向けて一歩を踏み出すには、それまで〈経験〉と思われてきたことをあまり信用し過ぎないことが大切だった。なぜなら、日常的経験などは、ごちゃごちゃした混乱の集積であるに過ぎず、それを漫然と観察しても科学的知見などには到達できないからだ。伝統的経験へのこの上ない不信感、それこそが、近代科学の黎明期に成立した特殊な眼差しだったのだ。
④⑤段落。「〈実験〉は、〈経験〉の漫然とした延長ではない」(傍線部(2))。一定の目的意識により条件を純化し、可能な限り感覚受容を装置によって代替させることで、緻密さを保証する。原基的構想がどの程度妥当かを、〈道具と数〉の援助を介在させながら試してみること──それこそが実験なのであり、それは、経験は経験でも極めて構築的な経験、極めて人工的な経験なのだ。…その意味で、若干箴言めかした逆説を弄するなら、経験科学は非・経験科学、というより、特殊な経験構成を前提とした科学だということになる。日常世界での経験などは、多くの場合、科学にとってはそのままでは使い物にならない〈前・経験〉〈亜・経験〉であるに過ぎず、その華やかで賑々しい経験世界からの一種の退却こそが、実定的な科学的認識には必要な前提だと見做されるのである。特に物理学の場合には、基底概念自体が、自然界の模写から来ているというよりは、大幅な単純化と抽象化を経た上で構成された概念だという印象が強い。…それが〈日常世界〉の技巧的模写などではないというのは、確かなものに思えるのだ。
⑥⑦段落。それを確認した上で述べるなら、寺田寅彦の物理学が、いささか変わった物理学だということは、やはり改めて強調しておくべきだ。もちろん寺田には、プロの物理学者として多くの実績がある。だが、寺田が「趣味の物理学」、「小屋掛け物理学」としての相貌を顕著に示すのは、割れ目、墨流し、金平糖の研究などの一連の仕事、あるいは、まさに日常世界での経験に〈科学的検討〉を加えた一連のエッセイを通してなのだ。それはあたかも、先に触れた、「近代科学の〈経験からの退却〉を惜しむかのような風情」(傍線部(3))なのだ。ただ注意しよう。寺田がX線回折の研究では同時代的にみて重要な貢献をなしたとか、地球物理学の分野で力を発揮したなどという事実は、決して看過されてはならない。仮に彼が〈経験からの退却〉を惜しんだとしても、それは例えば十八世紀フランスの素人物理学者、トレサン伯爵が大著で〈電流〉を論じたありさまとは一線を画する。トレサン伯爵の〈電流一元論〉の最大の特徴は、物理的言説であろうとしながらも、あくまでも日常的水準での直観が基盤となり、その直観からそのまま連続的な推論がなされているところにある。それはまさに「〈経験からの退却〉のし損ない」(傍線部(4))なのである。
⑧⑨段落。それに対して、寺田の場合には、同時代の学問的物理学の言説空間の中で或る程度行くところまで行った後での遡行的な運動なのであり、途中で頓挫した前進運動なのではない。〈日常世界〉と〈物理学世界〉のどこか途中に潜む、恐らくは無数にある中間点、そこをいったん通り過ぎた後で、また戻ろうとすること。「その興味深い往還運動がもつ可能性」(傍線部(5))に、西欧自然科学が本格的に導入されてから百年もしない内に目を向けた貴重な人物──それこそが寺田寅彦なのだ。…自然科学が文化全体の中でもちうる一つのオールタナティブな姿を、寺田物理学は示唆している。私にはそう思われてならない。
〈設問解説〉
問一 「事態は遥かに複雑なのだ」(傍線部(1))のように言われるのはなぜか、説明せよ。(三行:一行25字程度)
理由説明問題。傍線部は「彼に言わせれば」を承けるので、「彼」=アガンベンの言説に沿って説明しなければならない。アガンベンに倣い説明をしているのは②③段落なので、そこから解答を構成することになる。傍線の前②段落では、常識的な理解では、「観念から経験へ、それこそが、〈科学の科学性〉を保証する」(A)とし、それをアガンベンはほぼ逆転させると述べる。以下③段落、傍線部、さらに「それ(=事態)は、今述べたばかりの〈常識〉とは、むしろ逆方向を向いている」と続く。では、ここでの事態=近代科学成立の事態は、「観念から経験へ」(A)という常識的なパラダイム転換ではなくて、何によってもたらされたのか。続く記述を参照すると、「日常的な経験などは、ごちゃごちゃした混乱の集積である」ので、むしろ「伝統的経験へのこの上ない不信感」(B)、それこそが近代科学の「実定的科学性」を保証した、ということになる。
以上より、「近代科学が実定的な科学性を確立するには、AよりBが重要だったから」という骨格でまとめればよい。注意したいのは、問二にも関わるが、アガンベンも筆者も、科学の経験的側面一般を否定しているわけではないから、そこも配慮して解答する。
<GV解答例>
近代科学が実定的な科学性を確立するには、観念から経験への立場の転換より、むしろ日常に即した雑多な経験への徹底した不信と排除を経ることが重要だったから。(75)
<参考 S台解答例>
アガンベンによれば、実定的な科学的認識に至るには、観念から経験への転換という常識的理解とは逆に、雑多な混乱の集積である日常経験への不信感が重要であったから。(78)
<参考 K塾解答例>
現代科学は、観念的な思考から経験の観察への転換により生じたと見なされがちだが、実は雑然とした日常的経験に依拠してきた認識への疑念に由来しているから。(74)
問二 「〈実験〉は〈経験〉の漫然とした延長ではない」(傍線部(2))のように言われるのはなぜか、説明せよ。(四行:一行25字程度)
理由説明問題。「SはXではない」という形式は、Xと対比されるYを探す。その上で、理由説明タイプの問題なら、「SはYだから(→Xではない)」と答えればよい(ないある変換)。
傍線「〈実験〉は〈経験〉の漫然とした延長ではない」は、「〈実験〉は〈経験〉の延長ではない」とは当然異なる。ここでの〈実験〉は、「漫然とした=ねらいのない」〈経験〉の延長ではなく、「ねらいを持った」〈経験〉の延長(Y)なのである。こう見通しをたてると、本文でYに当たるのは、「極めて構築的な経験、極めて人工的な経験」(Y)(④)であることが分かる。
これで核はできたので、後はYがどういう点で「構築的/人工的」なのか(A)と、〈〉付きのここでの「実験」がいかなるものか(B)を明確にすればよい。Aは「一定の目的意識により条件を純化し、可能な限り感覚受容を装置によって代替させることで緻密さを保証する」(④)を、Bは「原基的構想がどの程度妥当かを…試してみること」(④)をそれぞれ根拠にし、適宜言い換える。さらに、前③段落からの論のつながりを意識し、ここでの「実験」は、「経験の日常的な側面を排除したものである」という要素を加えておきたい。
<GV解答例>
前提となる仮説の妥当性を裏づける実験は、経験から日常性を断ち切り、一定の目的意識により条件を純化し、可能な限り感覚受容を装置に代替することで緻密さを保証した、極めて構築的で人工的な経験だと言えるから。(100)
<参考 S台解答例>
経験科学の実験は、一定の目的意識により日常的な経験を単純化、抽象化したうえで、装置や数的処理を介在させ、大もととなる構想の妥当性を検証するという構築的、人工的な経験であり、日常的な経験の技巧的模倣ではないから。(105)
<参考 K塾解答例>
実験は、雑然たる日常的経験をただ観察するのではなく、原理的構想の妥当性を検証するために条件を整え、人が感受するものを装置によって数値的に把握することで正確に理解しようとする、人工的な経験であるから。(99)
問三 「近代科学の〈経験からの退却〉を惜しむかような風情」(傍線部(3))はどのような意味か、説明せよ。(四行:一行25字程度)
内容説明問題。傍線の主語は「それ」であり、それは前⑥段の「寺田の一連の仕事(エッセイも含む)」(A)を承ける。傍線は「Aは/近代科学の〈経験からの退却〉(B)を/惜しむような風情」となるが、後はAとBを対比的に説明し、どう惜しむのかを明確にすればよい。Aは「日常世界での経験に〈科学的検討〉を加え(ること)」(⑥)となる。それに対しBは、傍線前に「先に触れた」とあるので前にたどれば、直接的には⑤段落「華やかで賑々しい経験世界からの一種の退却こそが、実定的な科学的認識には必要な前提だ」を承けるが、これは問一で考察した内容(③段)、「近代科学がその科学性を確立するために経験の日常性を排除すること」(B)と把握できる。
以上で解答の核はできるが、これに加えて、寺田が「プロの物理学者」(⑥)、「同時代的にみて重要な貢献をなした」(⑦)物理学者であることも指摘しておく。素人物理学者トレサン伯爵(⑦)と違い、当代一流の物理学者があえて日常に〈科学的検討〉を加えるからこそ意味があるのである。その寺田からして、近代科学が「日常」を排除するのは残念でならない、そんな印象を筆者はもつのである。「近代科学は…経験の日常性を排除したが(B)/歴とした物理学者の…一連の仕事には(A)/科学が日常を扱わないことへの残念さが伺われるという意味」とまとめる。
<GV解答例>
近代科学はその科学性を確立するために経験の日常性を排したが、歴とした物理学者である寺田の、日常世界の経験に科学的検討を加える一連の仕事には、科学が日常世界を扱わないことへの残念さが伺われるという意味。(100)
<参考 S台解答例>
寺田寅彦の物理学には、日常的な事物を研究し、日常世界での経験に科学的検討を加えるという特徴がある点で、近代科学が日常的経験そのものを扱わなくなったことに対する残念さが、それとなく感じられるという意味。(100)
<参考 K塾解答例>
日常の経験に科学的検討を加えた寺田の研究には、華やかで心踊る魅力を湛えた経験をいとおしみ、世界の単純化と抽象化による近代科学からそれらが捨象されてしまったことを残念がる気持ちがうかがえるという意味。(99)
問四 「〈経験からの退却〉のし損ない」(傍線部(4))のように言われるのはなぜか、説明せよ。(三行:一行25字程度)
理由説明問題。主体は素人物理学者のトレサン伯爵(⑦)であることは自明。当代一流の物理学者として「日常世界での経験に〈科学的検討〉を加えた」(⑥)寺田と対比されている。「し損ない」という表現に留意すると、〈経験からの退却〉を志向しながら、その試みは頓挫するのである。その志向性(A)を説明した上で、それが頓挫する理由(R)を指摘する必要がある。
Aについては「物理的言説であろうとしながら」を拾うが、これではまだ弱い。トレサン伯爵は〈電流〉〈電流一元論〉を論じたとあるが、これは彼の代表的な研究であるはずだから、一般性も担保される。〈電流〉というのは、日常を生きる上でどうでもいい抽象概念である。たとえば、テレビのスイッチを入れ、画像が映る。それまでである。つまり、トレサン伯爵は、「日常的経験から切断された題材を研究対象とした」(A)、その点で〈経験からの退却〉を志向したといえる。
しかし残念ながら、トレサン伯爵は、「あくまでも日常的水準での直観が基盤となり、その直観からそのまま連続的な推論」を導いた(傍線直前)、よって「〈経験からの退却〉のし損ない」なのである。
<GV解答例>
物理的言説を志向し、日常的経験から切り離された題材を研究対象としながらも、結局、日常的水準での直観を基盤に、その直観から連続的に推論を導いているから。(75)
<参考 S台解答例>
トレサン伯爵の議論は、日常経験から離れた物理学的言説であろうとしながら日常的水準での直観から連続的推論を行った点で、日常経験の範囲に留まるものであるから。(77)
<参考 K塾解答例>
トレサン伯爵の議論は、物理学研究に見せかけてはいても、実際はあくまで直観に基づく推論に過ぎず、日常的経験から離脱した近代科学の言説とは言えないから。(74)
問五 「その興味深い往還運動がもつ可能性」(傍線部(5))はどのようなものか、説明せよ。(五行:一行25字程度)
内容説明問題(主旨)。「その興味深い往還運動」(X)と「Xがもつ可能性」(Y)を具体化する。Xについては、「その」の承ける内容、「寺田の場合には、同時代の学問的物理学の言説空間の中で或る程度行くところまで行った後での遡行的な運動(A)」「〈日常世界〉と〈物理世界〉のどこか途中に潜む、恐らくは無数にある中間点(B)/そこをいったん通り過ぎた後で(C)/また戻ろうとすること(D)」(⑧)を根拠にする。あとは、これまでの内容を踏まえた上での、表現力の問題。「物理学における学問的理解を前提に(A)/日常世界と物理学世界の無数の接点につき(B)/一旦物理学に基づき抽象的に把握した上で(C)/日常世界を物理学的に検討する(D)/往還運動」となる。
Yについては、⑨段落の本文末文「自然科学が文化全体の中でもちうるオールタナティブな姿を、寺田物理学は示唆している」が根拠となる。ここで「自然科学が文化全体の中でもちうるオールタナティブな姿」とは何か。本文論旨を踏まえると、近代科学はその科学性を確立するために経験の日常性を排除した(③)。それに対して寺田は、当代一流の物理学者として、あえて日常世界の経験に科学的検討を加えた(⑥)。これはXの内容でもある。ならば、「Xがもつ可能性=オールタナティブな姿」とは何か。近代科学がこれまで排除してきた経験の日常性に、近代科学として挑み、それをも包摂していく可能性である。
<GV解答例>
物理学における学問的理解を前提に、日常世界と物理学世界の無数の接点につき、一旦物理学に基づき抽象的に把握した上で、日常世界を物理学的に検討する往還運動により、成立の初めにおいて近代科学が排除した経験の日常性という未開拓領域を科学が包摂していく可能性。(125)
<参考 S台解答例>
一度日常的経験から脱却し、同時代の学問的物理学の言説空間の中で一定の成果を挙げたうえで、再度日常的経験に戻る過程において日常生活と物理学生活の中間に目を向けることで得られる、現代においても意義を有するような、自然科学が文化全体の中でもちうる別の在り方への示唆。(129)
<参考 K塾解答例>
日常的経験から離脱し、同時代の学問水準に達するところまで抽象的な科学の探求を進めたうえで、そうした営みの過程を振り返り、意図的に捨象してきた日常の具体的な経験も科学的に捉え直し、人間文化のなかで科学が示しうる新しいあり方を模索していくという営み。(123)
〈設問着眼点まとめ〉
一.「常識/非・常識」の対比設定→具体化。
二.「AのXではない」→「AではないXだ」。
三.「AはBを惜しむ」→AとBの対比。
四.「し損ない」→「志向」して「頓挫」。
五.「可能性」直接言及なし→論理的推論。
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