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2017京都大学/国語/第二問(理系)/解答解説

【2017京都大学/国語(理)/第二問(評論)/解答解説】

〈本文理解〉
出典は安藤宏『「私」をつくる    近代小説の試み』。
①段落。今日ごくあたり前に使われている「言文一致体」は、明治二〇年頃から明治四〇年近くまで、およそ二〇年かけてようやく一般化していった。(具体)。
②段落。言文一致の利点は、なんと言ってもその平明な「わかりやすさ」にあったのだが、これと並び、当時しばし長所とされたのが、記述の「正確さ」であった。物事を正確に写し取っていく写実主義にともない、「言文一致体」は日常のできごとを「ありのまま」に描写していくのにもっともふさわしい手立てであると考えられたのである。
③段落。だが、考えてみると「これはそもそもおかしなことではないだろうか」(傍線部(1))。
④段落。口語(会話)は、本来きわめて主観的なものであるはずだ。表情やみぶりで内容を補うこともできるし、あらかじめ共有されている共有されている話題であれば、自由に内容を省略することもできる。当時の描写論議、あるいは言文一致論議を見ていて奇妙に思われるのは、主観的な口語を模したこの文体がもっとも「客観的」で「細密」である、とまじめに信じられていた形跡のあることだ。急速に広まっていく写実主義の風潮の中で、過度に客観性が期待されてしまった点にこそ、おそらくはこの文体のもっとも大きな不幸と矛盾、同時にまた、それゆえの面白さがあったのではないだろうか。

⑤段落。田山花袋の「平面描写論」(明治四一年)は、「客観の事象に対しても少しもその内部に立ち入らず、又自分の内部精神にも立ち入らず、ただ見たまま聴いたまま触れたままの現象をさながらに描く」ことをめざしたもので、言文一致体にいかに客観的なよそおいを凝らしていくか、という課題から生み出された、当時を代表する描写論である。言い換えるなら、「客観」への信仰があったからこそこうしたよそおいも可能になったわけで、ここから話者である「私」を隠していくためのさまざまな技術が発達していくことにもなったのだった。結果的に叙述に空白──目隠し──が生み出され、読者の想像の自由が膨らんでいくことになったのは「大変興味深いパラドックスであったと言わなければならない」(傍線部(2))。

⑥段落。一方で、こうした「話者の顔の見えない話し言葉」の持つ「欺瞞」に対する疑問も、同時にわき起こってくることになる。特に次にあげる岩野泡鳴の「一元描写論」は、花袋の「平面描写論」とは正反対の立場に立つ考え方なのだった。(以下引用文)。
「作者が自分の独存として自分の実人生に挑む如く、創作に於いては作者の主観を移入した人物を若しくは主観に直接共通の人物一人に定めなければならぬ。…その一人(甲なら甲)の気ぶんになってその甲が見た通りの人生を描写しなければならぬ。…」(大正七年)
⑦段落。「話者の顔の見えない話し言葉」に対して、はっきりと一人の人物の視点に立ち、その判断で統一を図れ、という主張である。「この主張をさらにおしつめれば、明確に「顔」の見える「私」を表に出すのが一番明快である、という考えに行き着くことになるだろう」(傍線部(3))。それを極端な形で実践したのが明治の末から大正初頭にかけ、反自然主義として鮮烈なデビューをかざった白樺派の若者たちなのだった。彼らは一人称の「自分」を大胆に打ち出し、作中世界のすべてをその「自分」の判断として統括しようと企てることになる。

〈設問解説〉
問一 「これはそもそもおかしなことなのではないだろうか」(傍線部(1))について、筆者がこのように考えるのはなぜか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

理由説明問題。まず「これ」の指示内容を明確にする。直接的には、2文前「当時…その(=言文一致の)利点とされたのが、記述の「正確さ」であった」(A)ことを指す。加えて、④段3文目「(当時の…言文一致論議を見ていて)奇妙に思われるのは」に続く部分「主観的な口語を模したこの文体がもっとも「客観的」で「細密」であると…信じられていた形跡のあること」(B)も、「これ(→おかしなこと)」の指す内容と対応する。ABより、「これ」の指示内容を「口語を模した言文一致の文体の利点が/当時/正確さや客観性にあると/信じられていたこと」(C)とまとめる。
その上で、Cの「おかしさ」はどこか。これは④段1・2文目より、「口語は本来きわめて主観的/表情やみぶりで内容を補うことができる/あらかじめ共有された話題ならば内容を省略できる」(D)。CとDをつなぎ、「口語を模した言文一致の文体の利点は~と考えられていたが(C)/本来口語は~主観的で~だから(D)」と重文形式でまとめることができるが、くどいので主語を「口語(による表現)」と統一して複文化し、Dの後半部を簡潔かつ明確にして以下のようにまとめる。「明治の言文一致論議で客観性・正確性に利点をもつとされた口語による表現は(C)//本来きわめて主観的で/非言語的手段や/話題の共有により補完される必要があるから(D)」(→おかしい)。

<GV解答例>
明治の言文一致論議で客観性・正確性に利点をもつとされた口語による表現は、本来きわめて主観的で、非言語的手段や話題の共有により補完される必要があるから。(75)

<参考 S台解答例>
写実主義の風潮の中で、記述の正確さが言文一致体の長所とされたのは、本来主観的な口語を模した言文一致体を主観的ではなく客観的であるとみなす点で矛盾があるから。(78)

<参考 K塾解答例>
言文一致体は、表情や身体所作、省略を伴いつつ話者の主観を伝える口語を模したものなのに、物体を精密に描写しうる最も客観的な表現手段だとみなされるから。(74)

問二 「大変興味深いパラドックスであったと言わなければならない」(傍線部(2))について、このように言えるのはなぜか、説明せよ。(三行:一行25字程度)

理由説明問題。「Aになったのは/~パラドックスであった~」の理由の型は、パラドックス(逆説)の形式を踏まえ、「Bであることで/かえって(逆に)/Rであるので/Aになるから」(→パラドックス)となる。Bは傍線前文から「話者である「私」を隠していくためのさまざまな技術が発達していく」、Aは傍線直前から「読者の想像の自由が膨らんでいく」、(B→A)をつなぐRはAの直前から「叙述に空白が生み出され」となる。その上で、BとAの対比を明確にし、その対立が論理的につながるようにRを言い換える。⑤段落の記述を利用し、B「作者の主観をを介在させず/作中の事象や人物を写実的に描く技術が発達する」→R「作者と描写対象との間に距離(←空白)が生まれる」→A「読者の想像の介在させる余地が膨らむ」とつなげ、重なりを省いて仕上げとする。

<GV解答例>
作者の主観を介在させず作中の事象や人物を写実的に描く技術が発達することで、逆に作者と描写物との間に読者の想像を介在させる余地が膨らむ結果になったから。(75)

<参考 S台解答例>
読者の想像の自由は、言文一致体が、話者が存在する主観的な口語を模しながら、客観的描写を目指し、話者の存在を意識させない工夫をすることで、もたらされたものだから。(80)

<参考 K塾解答例>
物事を客観的に描写すべく、話者を隠す言文一致体の技法を発達させた結果、叙述に空白や秘匿が生まれ、逆に読者の恣意的な想像を掻き立てることになったから。(74)

問三 「この主張をさらにおしつめれば、明確に「顔」の見える「私」を表に出すのが一番明快である、という考えに行き着くことになるだろう」(傍線部(3))について、このように言えるのはなぜか、説明せよ。(四行:一行25字程度)  

理由説明問題。「この主張」(A)を明確にし、その論理的帰結に、「「顔」の見える「私」を表に出すのがいい」という立場(B)がある、よってBが「一番明快である、という考えに行き着く」(G)と説明すればよい。まずA以前に、田山花袋の「平面描写論」に代表される「話者=「私」の顔の見えない」写実主義の立場があった。それに対して岩野泡鳴の「一元描写論」は、傍線前文さらにそれが承ける引用部より、「作者が作中の一人物の視点に立ち/その一人の気ぶんになって/その判断で統一を図れ」と主張する(A)。
そのAに対して、「統一を図れ」というなら、Bが明快だというのである。また、そのBを極端な形で実践したのが、「一人称の「自分」を大胆に打ち出し、作中世界のすべてをその「自分」の判断として統括しようと企てる」白樺派の立場(C)だという。ここからAの延長として「統一」を図り、かつ極点としてのCをも含むBの立場を探り当てると、「現実世界の作者をモデルに作中の一人物を造形する」(B)ということではないか。こうすれば作者を「違う」人物に当てはめて一体化するよりも、より自然で整合性が高く(R)、よって明快となる(G)。その極点に「自分語り」としての白樺派が登場したのだった。
解答は、「Aを貫徹すれば/Bが整合性が高いという理屈に帰着するから」とまとめた。

<GV解答例>
作中の一人物の設定に沿って作者が自らの心理を展開させることで作中世界を統一すべきだという立場を貫徹するならば、現実世界を生きる作者を作中の一人物に仮託して語る方が整合性が高いという理屈に帰着するから。(100)

<参考 S台解答例>
言文一致体の小説において、明確に一人の人物の視点に立ち、その判断で作中世界の統一を図るには、話者としての「私」の存在を読者に明示し、作者の主観を「私」に託して、「私」の判断で全体を統括することが最も効果的であるから。(108)

<参考 K塾解答例>
話し言葉が抱える話者の排除という矛盾への疑問から生じた一人物の視点を通して描写すべきだという主張を突き詰めれば、一人称の「私」を話者に立て、その主観的判断として作品世界を統括することが最も理に適うから。(101)

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