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日常を超えた冒険:稲荷神社の独特な雰囲気

稲荷神社は、日本全国に約3万社あるとされる神社で、その総本宮は京都の伏見稲荷大社である。稲荷大神を祀り、五穀豊穣、商売繁盛、家内安全などのご利益があるとされている。多くの稲荷神社では、朱塗りの鳥居や狐の像が特徴的だ。

今回、私は町はずれにある稲荷神社を訪れた。この神社は、最寄りの民家からも500メートルほど離れた場所に位置し、周囲を鬱蒼とした木々に囲まれている。人里離れたその立地は、どれほど大声を出しても誰にも届かないような孤独感を感じさせる。

車を最初の鳥居付近に停め、そこから徒歩で参道を進む。登りの階段には朱塗りの鳥居が連なり、まるで異界への入り口のようだ。木々の間から漏れる陽光が、鳥居の朱色を妖しく照らし出している。今日は快晴で、以前訪れた時のような強い恐怖感はなかったものの、独特の雰囲気は相変わらずだ。

参道を進むにつれ、周囲の空気が変わっていくのを感じる。木々のざわめきも、何か意味ありげに聞こえてくる。ふと立ち止まると、背後から誰かに見られているような気配を感じた。振り返っても誰もいない。ただ木々が風に揺れているだけだ。しかし、その揺れ方が不自然に見える。まるで何かが隠れているかのように。

参道を進むと、狛狐が目に入った。お稲荷さんの使いとされる狛狐だが、その表情は、想像以上に恐ろしいものだった。目は爛々と光っているように見える。これは私の緊張した心理が影響しているのかもしれない。狛狐の口には巻物のようなものが咥えられている。多くの狛狐は口に鍵や巻物、玉、稲穂などをくわえているとされるが、それぞれに意味があるのだろう。

私は恐る恐る狛狐の前を通り過ぎ、拝殿へと向かった。拝殿に近づくにつれ、空気が重くなっていくのを感じる。まるで別の次元に足を踏み入れるかのようだ。拝殿の前に立つと、背筋に冷たいものが走った。何か、見えない存在が私を見つめているような感覚だ。

お参りを済ました後、私は急いで神社を後にした。帰り道、何度か後ろを振り返ったが、特に異常なものは見えなかった。しかし、背中に感じる視線は、神社を出てもしばらく続いていた。

車に乗り込み、エンジンをかけたとき、ふと思い出した。以前、御嶽山で経験した不思議な出来事のことを。

あれは数年前のことだ。私は写真を撮りに御嶽山を訪れ、山中で車中泊をしていた。その夜、寝苦しさで目が覚めると、時計は夜中の12時を過ぎていた。外では小雨が降っており、朝焼けの撮影は無理だと諦め、再び寝袋に潜り込んだ。

しかし、再び眠りについたものの、悪夢にうなされて目が覚めた。そして恐ろしいことに、体が動かない。金縛りだ。人けのない山中で、恐怖が全身を襲う。意識を内側に向け、必死に神に祈り始めた。

「神様、助けて…」と一心不乱に祈っていると、突然「コーン」という声と共に金縛りが解けた。驚いて自分を見ると、なんと私は口を尖らせ、手を弧の字に曲げて「コーン」と鳴いていたのだ。恐怖に駆られ、時計を見ると深夜2時。直感的に危険を感じ、すぐにエンジンをかけてその場を離れた。

その後、特に悪いことは起きなかったが、あれ以来私は稲荷神社に頻繁に訪れるようになった。もしかしたら、悪さをしないお狐様がまだ私に憑いているのかもしれない。稲荷神社には不思議で不気味な魅力があり、日常から少しだけ冒険する感じが心地よいのだ。

その時の体験談は以下を見てほしい。

稲荷神社には、言葉では言い表せない不思議で不気味な魅力がある。日常から少しだけ離れ、未知の世界を垣間見るような感覚。それが私を引き付けるのかもしれない。朱塗りの鳥居をくぐるたび、異界との境界を行き来しているような錯覚に陥る。

狛狐の厳しい表情も、今では親しみを感じるようになった。その目は確かに鋭く光っているが、それは悪意からではなく、訪れる人々を見守る眼差しなのだと解釈するようになった。口に咥えた巻物は、古くからの知恵や教えを象徴しているのかもしれない。

稲荷神社の境内に足を踏み入れると、まるで異世界に迷い込んだかのような感覚に包まれる。木々のざわめきや風の音が耳に優しく響き、時折聞こえる鈴の音や風鈴のかすかな調べが、この聖なる場所の神秘性を一層際立たせる。

夕暮れ時に訪れると、朱塗りの鳥居が夕日に照らされ、まるで炎の道のように輝く光景に出会える。その姿は畏怖の念を抱かせつつも、不思議な安らぎをもたらす。鳥居の向こう側には、私たちの日常とは異なる時間が流れているかのようだ。

御嶽山での経験以来、自然界の不思議さや目に見えない力の存在をより強く意識するようになった。稲荷神社の静寂に身を置くと、日常の喧騒から解放され、自分の内なる声に耳を傾けることができる。

参道を歩いていると、時として見えない存在に見守られているような感覚に襲われる。しかし、それは恐怖というよりも、温かく包み込むような安心感をもたらす。この感覚は、心を穏やかにし、深い知恵と力が宿っていることを気づかせてくれる。

稲荷神社への訪問は、単なる参拝以上の意味を持つようになった。それは自分自身との対話の場であり、日常から一歩踏み出す勇気を与えてくれる特別な空間だ。不気味さの中に潜む神秘性と向き合うことで、自分の内なる力にも気づかされる。

これからも、稲荷神社への訪問を続けていきたい。その度に新たな発見や気づきがあるはずだ。目に見えない世界との繋がりを意識しながら、慎重かつ敬意を持って接していく。そして、いつかその真相に迫れる日が来ることを、静かに、そして少しばかりの期待を胸に秘めて待ち続けている。



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