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人形の微笑む森

静寂の森に潜む影

夏の終わりを告げる風が、富士山の麓に広がる青木ヶ原樹海を揺らしていた。木々のざわめきは、この森が秘める数え切れない物語の一部にすぎない。樹海の奥深くには、人知を超えた何かが潜んでいるという噂が、古くから絶えることはなかった。

高校教師の佐藤雄一は、夏休みの最後の日曜日に、かねてから計画していた樹海への一人旅を実行に移していた。彼の目的は単純だった。樹海に纏わる都市伝説の真相を探ることだ。しかし、その裏には誰にも言えない秘密が隠されていた。

雄一は、樹海の入り口に立ち、深呼吸をした。空気は湿っており、かすかに腐敗した匂いがした。それは、この森が多くの生命を飲み込んできたことを物語っているようだった。彼は、バックパックの中の地図とコンパスを確認し、緑の濃い森の中へと足を踏み入れた。

樹海の中は、想像以上に暗かった。木々が密集し、太陽の光はほとんど地面まで届かない。雄一は、頭上を見上げた。木々の枝が複雑に絡み合い、空を覆い隠していた。それは、まるで巨大な生き物が、彼を飲み込もうとしているかのようだった。

歩き始めて数時間が経過した。雄一は、コンパスを頼りに進んでいたが、どこか違和感を覚えていた。地図上の目印と、実際の景色が一致しない。彼は立ち止まり、周囲を見回した。すべての方向が同じように見える。木々は、まるで彼を囲み、出口を与えまいとしているかのようだった。

「おかしい...」雄一は呟いた。「こんなはずじゃ...」

その時、彼の背後で枝が折れる音がした。雄一は素早く振り返ったが、そこには何もなかった。ただ、木々の間に漂う霧だけが、かすかに動いているように見えた。

彼は再び歩き始めた。しかし、今度は慎重に。樹海の空気が、徐々に重くなっていくのを感じた。それは単なる湿気ではない。何か...得体の知れないものが、彼を見つめているような感覚だった。

日が傾き始め、樹海はさらに暗くなった。雄一は、懐中電灯を取り出し、前方を照らした。光が届く範囲は限られており、それ以外は漆黒の闇に包まれていた。

突然、彼の目に何かが映った。それは木の幹に結ばれたテープだった。森林管理局が、迷った人を正しい道に導くために設置したものだ。雄一は安堵の溜息をつき、そのテープに向かって歩き始めた。

しかし、テープに近づくにつれ、彼の背筋に冷たいものが走った。テープは、管理局が使用する黄色ではなく、不吉な赤色だった。そして、その赤いテープは、一本の木から別の木へと、まるで誘導するかのように続いていた。

理性は「危険だ、戻れ」と警告していた。しかし、好奇心が雄一を押し動かした。彼は、赤いテープを追いかけるように進んでいった。

テープは、樹海の奥深くへと続いていた。木々はますます密集し、空気は重く、湿っていた。雄一の呼吸が荒くなり、心臓の鼓動が耳に響いた。

そして、テープの先に到達した時、彼は息を呑んだ。

そこには、一軒の古びた小屋があった。屋根は朽ち果て、壁には苔が生えていた。しかし、最も奇妙だったのは、その小屋の扉が半開きになっていたことだ。まるで、誰かが彼を待っているかのように。

雄一は、小屋の前で立ち止まった。入るべきか、それとも逃げ出すべきか。彼の心の中で、激しい葛藤が起こっていた。

しかし、その時だった。小屋の中から、かすかな泣き声が聞こえてきた。それは、幼い子供のようだった。

雄一の教師としての本能が働いた。危険を顧みず、彼は小屋の中に踏み込んだ。

「誰かいますか?」彼は声をかけた。「大丈夫ですか?」

返事はなかった。しかし、泣き声は続いていた。それは、小屋の奥から聞こえてくるようだった。

雄一は、懐中電灯で内部を照らしながら、慎重に進んだ。小屋の中は、想像以上に広かった。壁には、奇妙な模様が描かれており、床には不気味な文字が刻まれていた。

彼は、奥の部屋に到達した。そこで、彼は凍りついた。

部屋の中央には、一人の少女が座っていた。しかし、それは人間の少女ではなかった。その姿は、まるで古い日本人形のようだった。漆黒の髪、白い肌、そして...空洞の目。

少女...いや、人形は、雄一を見つめ、そして笑った。

「よく来てくれました、先生」人形が話した。その声は、少女のものでありながら、どこか年老いた響きがあった。「あなたを待っていました」

雄一は、後ずさりしようとしたが、体が動かなかった。

「怖がらないで」人形は続けた。「私たちは、あなたのような人を待っていたの。この森を理解しようとする人を」

雄一の頭の中で、警告のアラームが鳴り響いていた。しかし、同時に、彼の中の好奇心が、この状況を理解しようともがいていた。

「あなた...あなたは何者だ?」雄一は、震える声で尋ねた。

人形は、ゆっくりと立ち上がった。その動きは、ぎこちなく、まるで誰かに操られているかのようだった。

「私たちは、この森の守護者です」人形は答えた。「人々の悲しみ、絶望、そして...秘密を守る者たち」

雄一は、喉が渇くのを感じた。「秘密...?」

人形は、雄一に近づいた。その足音は、床を軋ませた。

「そう、秘密です。あなたの秘密も含めて」

雄一の心臓が激しく鼓動した。彼の秘密。誰にも言えない、あの日の出来事。

「私...私は...」

「分かっています」人形は、雄一の言葉を遮った。「あなたが、あの生徒を...」

「やめろ!」雄一は叫んだ。「それは事故だった。私は...私は...」

人形は、雄一の前で立ち止まった。その空洞の目が、彼の魂を覗き込むようだった。

「事故?本当にそう思っているのですか?」

雄一の頭の中で、記憶が蘇った。あの雨の日、彼の車に飛び込んできた生徒。彼が一瞬ためらったこと。そして...

「私は...私は...」雄一は、言葉を失った。

人形は、静かに笑った。「大丈夫です。ここでは、すべてが許されます。この森は、あなたのような人々を受け入れるのです」

雄一は、膝から崩れ落ちた。彼の目から、涙が溢れ出した。

「私は...許されるの?」

人形は、雄一の肩に手を置いた。その手は、驚くほど温かかった。

「はい。ここでは、あなたの罪も、悲しみも、すべてが森の一部となります。そして、あなたも...」

雄一は、顔を上げた。人形の目が、かすかに光っているように見えた。

「私も...?」

「はい、あなたも森の一部となるのです」

その瞬間、雄一の周りの空間が歪んだ。小屋の壁が溶け、樹木に変わっていった。床から草が生え、天井は消え、星空に変わった。

雄一は、自分の体が変化しているのを感じた。皮膚が硬くなり、指が枝のように伸びていく。彼は叫ぼうとしたが、声は出なかった。

最後に彼が見たのは、人形の笑顔だった。そして、すべてが闇に包まれた。


数日後、警察の捜索隊が樹海を捜索していた。行方不明になった高校教師を探すためだ。

彼らが発見したのは、一本の若い木だった。その木は、他の木々とは違い、まるで人の形をしているようだった。

捜索隊の一人が、その木に触れた瞬間、かすかな悲鳴を聞いた気がした。しかし、周囲を見回しても、誰もいない。

彼は、不安そうに同僚を見た。「ここ...なんか変な感じがしねぇか?」

同僚は、肩をすくめた。「ああ、この森はな。みんなそう言うんだ。でも、気にするな。仕事を終わらせて、さっさと帰ろうぜ」

彼らは、その場を離れた。しかし、その若い木は、彼らが去っていく姿を見つめていた。そして、風に揺られるたびに、かすかにため息をついているようだった。

樹海は、また一つ、新たな秘密を抱え込んだのだ。そして、その秘密は、永遠に森の中で生き続けることだろう。

人々は、この森を恐れ、敬う。しかし、誰も本当の恐ろしさを知らない。樹海は、単なる森ではない。それは、人間の罪と後悔を飲み込み、永遠に生かし続ける生き物なのだ。

そして、今夜も、樹海の奥深くで、人形は新たな訪問者を待っている。罪を背負い、救いを求める者たちを。

森は、すべてを受け入れる。そして、すべてを変える。

それが、青木ヶ原樹海の真の姿なのだ。



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