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決して黒い男を見てはいけない…

これは、先日私が見た悪夢をもとに書いた物語である。

夜の帳が降りた頃、私は人里離れた地方の古びたホテルに一室を取った。旅の疲れを癒すための一夜の宿だったが、その部屋には不穏な静寂が漂っていた。古い調度品が薄暗いランプの光に浮かび上がり、埃の匂いが微かに鼻をくすぐった。ベッドに横たわり、疲労感に身を委ねながら、眠りの訪れを待っていたその時、不意に心の奥底から声が響いた。「決して黒い男を見てはいけない…」

その声は耳元で囁かれたのではなく、まるで誰かが私の内面に直接語りかけてきたかのようだった。柔らかいが冷たい、嫌な予感が混じったその声に、私はぞっと身を震わせた。疲れによる幻聴かもしれないと、自分に言い聞かせてみたが、その言葉は心に深く刻まれ、消え去ることはなかった。

眠りに落ちようと努力してみたものの、胸の奥にこびりつくような不安感は増すばかりだった。やがてその重苦しさに耐えられなくなり、私は意を決して部屋を出た。廊下に足を踏み入れると、長い回廊は陰影に包まれ、寂しい静けさが支配していた。古い絨毯の上を歩くたび、柔らかい感触が足元に伝わり、音は立たなかった。

薄暗い明かりの下、ふと視線を廊下の奥へと向けると、一人の男が清掃道具を押して歩いているのが見えた。彼の姿は、ホテルの客室係のように見えたが、どこか奇妙で不自然だった。こちらに気づいた男がゆっくりと顔を上げた瞬間、私は凍りついた。その顔は、まるで闇そのものが形を成しているかのように、漆黒のもやが張り付いており、表情はおろか、顔立ちすら判別できなかった。直感的に「こいつだ」と理解したが、すでに遅かった。

その男は、突然私の存在に気づいたように立ち止まり、何かを呟き始めた。言葉は全く理解できなかった。しかし、その声はノイズのようで、言葉としては全く聞き取れない。低く唸るような「ブッツブーブー」と、まるでアブが耳の周りを舞うようなその音が、私の神経を逆撫でする。男はその奇怪な音を伴いながら、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

その黒い顔が徐々に私の視界を覆い尽くし、まるで底なしの闇に吸い込まれそうになった。逃げようとしたが、体が動かない。男はさらに顔を近づけ、私の顔を覗き込んだ。視界いっぱいにその黒い闇が広がり、私は絶望的な恐怖に囚われた。そして、男の手が私に向かって伸び、触れる直前に――目が覚めた。


現実の私は、汗にまみれた布団の中で荒い呼吸を繰り返していた。何が起こったのか理解できないまま、鼓動が胸を激しく打ち続ける。まるで夢と現実の境界が曖昧になったかのように、全身が震えていた。

「いったい何だったんだ…」

私はベッドを飛び出し、台所へ向かった。コップに水を注ぎ、一息に飲み干した。冷たい水が喉を通り、少しずつ現実に戻ってくる感覚があった。

だが、その時ふと気づいた。さっきまで夢の中にいたあの黒い男が、ただの悪夢ではなく、何か現実に影響を及ぼしているかのような感覚が、まだ私の中に残っていることに。

そして、心の奥底で囁く声が再び聞こえた。

「決して黒い男を見てはいけない…」



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