見出し画像

2020/02/24 《舞台 紅葉鬼》/恨みを断ち切る

胸に迫るよい作品を観た後は、それまで忘れていた呼吸を突然思い出したかのように大きく息をつく。そして観ていただけなのに思いの外消耗していることに気付いたりする。

《舞台 紅葉鬼》は、桜日梯子『抱かれたい男1位に脅されています。』(リブレ)の劇中劇から生まれた演劇作品だ。原作の中では殆ど内容が明らかにされておらず、アニメでは《紅葉鬼》上演シーンが追加で盛り込まれた。アニメで見たときに実際に芝居で観たいと思ったのが実現したことになる。劇場で観ることは叶わなかったが、今回DVDで見た。

《舞台 紅葉鬼》の梗概は以下の通り。

時は平安。鬼と人間の争いは日増しに激化し、多くの犠牲者を出していた。
都を守護する兵士である繁貞はある日、鬼の頭目・経若から和平を結びたいという書状を受け取り鬼の里へ向かうことにする。しかし鬼側にも人間側にも繁貞の思いとは違う思惑があり…。
血の宿命に翻弄される繁貞と経若の二人。
はたして、生き残るのは鬼か人間か。
――《舞台 紅葉鬼》HP「あらすじ」より

経若と繁貞のふたりが、人間と鬼との間に揺れ、己が何者であるのかということに悩み、自分たちを絡めとる因縁とどのように向き合うのかが、本作の見どころだ。彼らの心に打ち込まれる楔としての鬼女・呉葉の怨念がふたりに葛藤を生む。他の登場人物たちも、それぞれの愛情を拠り所として自分の信じるもののために動いてゆく。

思い出したのは、井上ひさし『ムサシ 』(集英社)だ。
舟島の決闘後の宮本武蔵と佐々木小次郎とを描く『ムサシ』では、筆屋乙女という女性が、武蔵と小次郎の協力を得て父親の仇討ちを行おうとする。自分の振り下ろした刀により大怪我を負った仇敵・浅川甚兵衛の姿を目にして、乙女は以下の思いを吐露して仇討ちを断念した。文字通りの「断念」だ。この断念が武蔵と小次郎を揺さぶる。

……恨みの三文字を細筆で、初めに書いたのは父でした。その文字を甚兵衛どのが小筆で荒く書き、いまわたくしは中筆で殴り書きしようとしている。やがて甚兵衛どののゆかりの方々が太筆で暴れ書きすることになるはず……。そうなると、恨み、恨まれ、また恨み、恨みの文字が鎖になってこの世を黒く塗り上げてしまう。恨みから恨みへとつなぐこの鎖がこの世を雁字搦めに縛り上げてしまう前に、たとえ、いまはどんなに口惜しくとも、わたくしはこの鎖を断ち切ります。……もう、太刀を持とうとは思いませぬ。

本作の経若と繁貞も、そして彼らの母たる呉葉も同じく、自分を支配する恨みの連鎖を断ち切る。その道へ葛藤の末に辿り着くからこそ、彼らに人間と鬼との種の違いを超えた高潔さと強さとを見る。一方で、それぞれの愛情のために散った者たちも決して善悪ではかれるものでないことも知っている。だから、他者の人生を傍観しながら、どのように生きるのかを観客は問われるのだ。双方を理解できるからこそ、どちらかを選択して生きる舞台上の一人ひとりが眩しく感じられる。

*****
《2020/02/24 補記01》
主人公が映えるのは、魅力的な敵役があってこそ。その点で、富田翔氏演じる陰陽師「摩爬(するは)」は怪しくてそこがよかった。彼は思い通りにならない帝を愛するが故に術をかけて傀儡にしてしまう。富田氏の熱演は、先週の《カレイドスコープ―私を殺した人は無罪のまま―》でも観た。同じ人が演じているとはとても思えない。役者って凄い。
富田さんは自身のブログ「IR number 18」2020年1月6日付記事で、以下のように本作と摩爬について振り返っている。

「紅葉鬼」
衝撃的な風貌だった摩爬という役。
この人物は創るのに時間がかかりました。
立ち位置は悪でしたが
摩爬の決して曲げられない信念
歪んでるくらいのまっすぐな愛情
内側ではその部分を大切にしながら
どうあの説得力を動きと台詞で表現するかを
試行錯誤しながらもがきました。
まっちーの初演出に立ち会えたのも嬉しかったし
苦しみながら一緒に創れることを楽しみました。

《2020/02/24 補記02》
蜷川幸雄演出の舞台《ムサシ 》はこれまで何度か上演されている。武蔵は一貫して藤原竜也さんが演じている。小次郎は、初演が小栗旬さん、その後、勝地涼さん、溝端淳平さんが演じている。演劇の素敵なところが全部詰まっている傑作です。


この記事が参加している募集

買ってよかったもの

投げ銭用のかごのつもりでサポートエリアを開けております。よろしければお願いいたします。いただいたサポートは本の購入に充てようと思います。(あ、でもプリンを食べてしまうかも。)