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2020/05/22 彼らも見ている/内と外の逆転

オンライン終礼の後、学年のある生徒・保護者と担任を介してGoogle meetを用いた面談をした。3次元中継。居ながらにして話をするのは、直接の対面でなんとなく感じ取る気配のようなものをつかむのは難しいけれど、それでも顔を合わせて話すことのハードルは下げてくれる。緊張もするし、先方のために学年主任として何ができるか分からないこともあるけれど、誠意を持って関わりたい。

面談のあと、担任の教員とそのまましばらく雑談をした。わたしの部屋の電灯スイッチの周りには海遊館で買ったステッカーのペンギンたちが踊っている。それに彼女が気づいたのがきっかけで、ペンギンとか水族館の話になる。

ペンギンの話というのは、アメリカのカンザスシティ動物園のフンボルトペンギンたちがネルソンアトキンス美術館で絵画鑑賞したという話。学芸員によると、彼らはスペイン語圏に住むペンギンだからかモネよりもカラヴァッジョに強く反応したとか。先日、友人からの便りにも書いてあった話だ。大変キュート。カラヴァッジョを選ぶところがさすがである。

そのあと、話し相手の若い同僚が教えてくれたのは、水族館の魚が憂鬱になっているという話。魚たちは、ただ水槽の中を回遊しているようでいて、水槽の外にいる人間の反応を見て楽しんでいたのだという。だから、水族館が休業してお客の足が途絶えると、魚たちは気が塞いでしまったのだそうだ。餌を食べなくなったり、水槽内で泳ぐダイバーに甘えるようにまとわりついたり。驚いてしまった。コペルニクス的転回といってもいい。十分な大きさの水槽で暮らす魚にしてみれば、人間は限られた場所を通り過ぎてゆくおもしろい存在だったのだ。当然のように「見る側」だと思っていた人間のわたしは、魚に「見られる側」だった。内側にいるのは、彼らからすれば人間のほうなのだ。

思い出すのは、子供の時分のこと。
今の親が住む場所ではなく、その前に住んでいた家での話だから、わたしが小学2年生までのことだ。
お祭りの金魚すくいで連れて帰った金魚を水槽で飼っているうちに、彼らは鮒のように大きく育った。あるとき、鱗の病気か何かになったため軟膏を母が金魚に塗ってやるうちに、病気が治っても母が水槽に手を入れれば金魚たちは自分から母の手の中に収まるようになったのだそうだ。寄ってくるのは母のときだけ。犬を偏愛する母もこれには情が湧き、ずいぶんかわいがっていた。
が、ある日曜、両親が家の前で水槽の水の入れ替えをしているとき、父が金魚を一時的に入れたバケツに蓋をしなかったために、一番懐いていた金魚が猫に奪われるという惨事が起きた。そのときの母の怒りようといったらそれはもう相当なもので、今思い出しても件の猫と父とを末代まで祟る勢いだったと思う。(本当にそうだったら私も祟られるので困るのだけど。)
あのときの金魚もわたしたちを見ていたし、すべて水槽の中で分かっていたのだと思う。

中学2年生向けの国語の教科書『中学国語2 伝え合う言葉』(教育出版)のことも思い出す。
映画監督の龍村仁氏による「ガイアの知性」という評論が掲載されていた。その中で紹介されるエピソードの一つに、水族館で飼育されるオルカの話がある。
水族館のオルカは、自身が囚われの身でどこかへいくことが叶わないので、そこで生きることを選び世話をしてくれる人間に心を開くという。自分よりも非力な人間と一緒にショウに出演する際には、人間を傷つけないようにスピードを加減して泳いでやる。それは、オルカの意志と選択によるという。氏曰く「狭いプールに閉じこめられ、本来もっている高度な能力の何万分の一も使えない過酷な状況におかれながらも、自分が「友」として受け人れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分自身も生きることを楽しむオルカの「心」があるからこそできることなのだ。」と。

人間のものの見方とか、人間の知性だとかを、つい当然のように他の生物よりも優れたもののように捉えてしまう。やはりそれは間違っているのだと、今日の雑談をきっかけにして思った。人間と他の生物は同じ世界に生きてはいるけれど、生きる位相が異なるから、比較のしようがないのだ。改めて目から鱗が落ちる思いがした。

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