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二拠点生活のきっかけ

やっぱりCOVID-19

自然に囲まれた場所に別荘を持つことは、20代の頃から憧れがありましたが、それは定年退職後の話だと。会社で働けるうちは、どこか一箇所に絞った別荘を持つことよりも、旅行で方々の宿泊先を利用するのが、自分に合った動き方だと思っていました。だからこそ、住む場所は、通勤にも遊びにも何かと便利な都心が、自分にとっては必要で、当たり前だと考えていました。都会育ちの私には、田舎は観光地であって、長期間滞在する場所ではないと、それをするのはおじいちゃんになってからだと。

ところが、新型コロナですよ。変異株が色々出てきて、もはや「新型」なのかわかりませんが。これによる生活スタイルの大きな変化が、二拠点生活を“いま”考える大きなきっかけとなりました。

仕事は在宅勤務が中心に、密な通勤地獄から解放されました。いや、生まれてからほぼずっと都会暮らしなので、正直、地獄だなんて感じたこと一度もなかったです。苦痛と考えることも疑うこともなく、当たり前の日常でした。それが、自宅から仕事する生活が1年以上続くと、あの満員電車に戻るのは怖いし、不必要なことだと思うようになりました。取引先との夜の会食も、関係を円滑にし、売上や事業の拡大には必須だと思っていました。いや、そこまで真面目に考えていたわけでもなく、飲み会がないと、自分が精神的に疲れてしまうと思ってました。自分みたいな人間には、必要なルーチンだと思い込んでいました。ところがもう1年以上、コロナ前のような会食を開いていませんが、仕事になんの支障もなく、むしろ経費節減でコスパが良くなりました。ただ、コミュニケーションツールとしての外食の重要性は今でも変わらないとは思います。それでも、大人数でドンちゃんやって、あれってなんのコミュニケーションだったのかなぁと、飲み会大好きだった男がここまで変わるとは自分でも驚いていますが、もういらないですよ。体調が優れない日も無理して飲みに行ってたあの日々、翌日まで気持ち悪さが続くほど飲み食いして、その夜も迎え酒して、あーなんか元気になってきたとか言って、変な充実感を覚えて…あの日々は、いったいなんだったのでしょう。

本当にちゃんと話がしたい人とは、1対1で会ったほうが、中身の濃い時間を過ごせることに、今更ながら学んでいます。
酒量が減り、朝の目覚めも爽快で気持ちよく、家で家族と過ごす時間も増え、よく会話するようになりました。

そうして、会社の近くに住んでいる価値を感じなくなりました。

もはやコロナ時代の常套句ですが、私のような仕事はどこにいてもできるし、直接会って飲みに行かないと仕事が進まないというのは幻想でした。そういうことを身をもって感じたことが、私にとって、地方移住や二拠点生活を「今のこと」として考えるきっかけになりました。


自粛生活が島生活の準備期間に

神津島の人からは、「島の夜は長いよー、やること何にもないよー」と、覚悟するように言われてましたが、緊急事態宣言下の都心にいても、20時以降の飲食店はテイクアウトしか利用できず、家で過ごすことしかできないので、実際に島に来ても言われていたほどの違和感がありませんでした。

むしろ、神津島にいると、海の様子でその日の予定が変わるので、早朝は目覚めと同時に外へ出て海を眺め、風を感じ、晴れた日の夜空には満天の星たちが広がり、都会ではなかなか見つけられない日々の変化に触れることができます。

コロナ前は、夜の会食の後、二次会→三次会→〆のラーメンと続いたり、二次会で終わる日は飲み足りず、ひとりでスナックに立ち寄り、ベロベロにしてから帰宅という日々を送っていました。もしかすると、そういうコロナ前の生活ルーチンをそのまま島に持ち込んでいたら、島での生活が退屈で辛くなっていたかもしれません。自粛生活が、島暮らしに向けた良い準備期間になっていたように思います。

下からは、ダイビングの話が長くなります。

趣味ではじめたダイビング

学生の頃から水泳は苦手で、マリンスポーツも得意ではありませんでした。高校生の時はラグビー部で筋トレも好きだったので、プールサイドに立つと、かっこよく泳げそうに見えるんですが、実際はまったくだったので、見掛け倒しが過ぎるとからかわれてました。

初めて体験ダイビングをしたのが今から十数年前だったと思います。幼かった娘とスリムだった妻と3人でサイパンに遊びに行ったときでした。すごく楽しかったのを覚えていますが、Cカードを取りに行くまで考えが及びませんでした。運動会のパパさん達と同じで、娘の写真や動画を撮ることで頭がいっぱいだったと思います。

その後、ダイビングのことはすっかり忘れていたんですが、2016年のGWに知り合いと三浦でシーカヤックをした際、ふざけていたら転覆してしまい、その時に、思い出したんです…「あ、もっと深く潜ってみたかったんだ」と。それで、帰宅後すぐに、自宅から一番近いダイビングショップに連絡して、説明を聞きに行ってそのまま、ウェットスーツもドライスーツも重器材・軽器材一式も買ってしまって、講習もオープンウォーターとアドバンスをセットで申し込みました。最初に結構な額をまとめて支払ったので、しっかりと元を取りたくて、どんどん潜りに行っていたら、今度はダイビングのない週末がひどく退屈になりました。いま思うと、ちょっとした禁断症状、中毒状態だったかもしれません。しかし、私が通っていたダイビングショップが超人気店でして、立て続けの予約が取りづらく、毎週潜りたい私のニーズと合いません。当時の私は、どこのダイビングショップも同じような混み具合だと思ってましたが、他のお店にも行くようになって、特別に超人気店だということを知りました。いまでも本当は、家から一番近いこのショップのお世話になりたいのですが、予約の競争率が高いので、仕方なく、海の近くの現地ショップへ直接連絡するようになりました。

三浦からはじめ葉山、小田原、真鶴、東伊豆、南伊豆、西伊豆と、時には逆方向で千葉へ行き、時には遠く奄美、沖縄へ、間をとって紀伊半島へと…範囲を広げて行きました。また、海外出張する際にも、出張の後に有給休暇を付け足して、現地でダイビングを楽しみました。インドネシア、タイ、台湾などで潜りました。ちなみに、自己紹介のページに貼った写真は、北海道知床の流氷ダイビングで撮ったものです。(同じ国の中で、トロピカルな海も、アイスダイビングも楽しめて、日本の自然環境って素晴らしいですよね。この魅力と価値を多くの人に知ってもらいたいですよ。)

プロを目指すきっかけ

レクリエーションダイビングは安全上の理由から、バディと一緒に潜るのが基本になりますので、私と同じように、毎週潜り続けたいダイビング中毒者たちと、自然と行動をともにするようになりました。最初は、自分と同じ頃にダイビングをはじめたダイバーたちと潜りに行っていたのですが、やがて、ツアーなどで知り合った経験の浅いダイバーとも一緒に潜る機会が徐々に増え始めました。そうなると、こちらが先輩的な立場になるので、アドバイスを求められたり、質問を受けたりします。今日の透視度や生物の名前程度ならたいしたことないのですが、医学的なことや安全に関わることだったりすると、自分の回答が本当に正しかったのか、自信が持てません。水中での振る舞いも、例えば中性浮力がうまく取れないバディをどこまでサポートしていいのか、どこからはガイドに任せるべきか、判断に迷う場面が増えました。
そこで、自分に自信をつけることが最初の目的で、プロダイバーのスタートラインであるダイブマスターを目指すことにしました。

ところが、先ほど申し上げた通り、私は水泳が苦手です。ダイビングを何年やっていても水泳は上達しませんでした。ダイブマスターの取得には、体力テストが課せられ、その中で、海パンで400m泳ぐことと15分間の立ち泳ぎをクリアする必要があります。当時の私は、50m泳ぐのが精一杯で、1回泳いだら、はぁはぁ、ぜいぜい、ゴホゴホと、もう瀕死状態に陥ってました。そこで、まずはダイブマスターコースの受講前に、水泳の個人レッスンに、週2回、約1年間通いました。その後なんとか泳げるようになりまして、プロダイバーへの門をたたきました。

ダイブマスター講習で感じた「もどかしさ」

ダイブマスターコースの後半には、実際のOWD(オープンウォーターダイバー)やAOW(アドバンスドオープンウォーターダイバー)の受講生と一緒に潜り、インストラクターのアシスタントとして海洋実習にも参加します。ダイブマスターは、あくまでアシスタントであり、インストラクターではないので、インストラクションをしちゃいけないんですが、これが実にもどかしい。インストラクションしたくて、教えたくて、ムズムズしました。例えば、水中であるスキルを受講生がデモンストレーションしたとします。よくできていたので、水中でダイブマスターがOKサイン(=合格判断)を出すとします。ダイブマスターがアシスタントとして参加してる講習でこれやっちゃダメなんです。インストラクションとみなされ、越権行為になるんです。でも、OKって伝えたいんですよ、私は。このもどかしさは伝わりますかね…。

自分に自信をつけるのが目的で始めたダイブマスターへの道でしたが、いざダイブマスターになってみると、このもどかしさに耐えきれず、インストラクターを目指すことにしました。ただ、現場で働いた経験もなくインストラクターを目指すのか、それともダイブマスターとしてショップで経験を積んでからインストラクターになる道を選ぶか、要はいつ講習を受けるべきか、しばらく考えていました。

非常勤スタッフとして経験積みたい

ダイブマスターコースが終わる頃、週末や連休に非常勤スタッフとして、ショップで経験を積みたいと思うようになりました。セルフダイビングの時にちょっと自信がつけば…程度の目的が、やってるうちに欲が出てきたんです。ダイブマスターコースの体力テストは嫌でしたが、それ以外の講習は、座学も実習も全て楽しくて、なるほどこう考えるのか!と興味が持てるものばかりでした。なので、それを早く実践してみたかったです。講習が開催できないもどかしさはありつつも、ガイドとしての経験もゼロだったので、実践を通して、スキルを磨く必要を感じていました。

何人か、仲の良い、経験豊富なダイビングインストラクターさんたちに、相談しまして、その場所を神津島に決めました。(神津島に決めた理由は、ダイビング以外のことも含めて、別のページで書きます。)

神津島のダイビングシーズンは4月からなので、ダイブマスターコースが修了した12月からまだ時間がありました。上に書いた通り、今年はまずダイブマスターのまま経験を積むことを優先するべきか…とちょっと迷いましたが、先にインストラクターまでとって、講習もできる状態でシーズンを迎えることに決めました。ダイブマスターコースもインストラクター開発コースも、私が最初に通った超人気店で受講しました。これは、人によりけりと思いますが、色々なコースディレクターが在籍するショップで習うと、一箇所で多様な視点を学べるので、私には良かったです。その後、今年3月に稲取で行われた試験に無事合格しまして、ダイビングインストラクターになりました。

結果的には、緊急事態宣言の延長で、4月どころか、5月も6月もゲストがほとんどいない状態が続いていますので、先にインストラクターまで取っておいて正解だったと思います。

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私はPADIでインストラクターになりました。団体によって、名称や段取りが異なるかと思いますが、PADIでインストラクターになるためには、講習と試験が分かれていて、IDC(インストラクター開発コース)を先に受講し、修了後に、IE(インストラクターエグザミネーション)という試験に合格する必要があります。IDCはショップがやってくれるんですが、IEは認定団体のPADIがやります。私はPADIの方を誰ひとり知らなかったので、IE当日はめちゃくちゃ緊張しました。

IE初日の私のFacebook投稿がこちらです。

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占い師の導き

急にスピリチュアルな見出しになりますが、実際そうでもないのでご安心ください。

普段、占いは全く行かないのですが、2019年〜2020年の2年間は、5〜6人の占い師さんに見てもらいました。それくらい悩んで迷う日々を送っていました。しかし、どれも当たり障りがなく、どうにでも解釈できるような内容ばかりでした。その中で、おひとりだけ、占い自体は参考にならなかったのですが、心に残った言葉があります。

「私は占い師やりながら、モデルもやってるし、YouTuberもやってるし、執筆活動もしている。今の時代、どの仕事が主で、どの仕事が副業だとか考えてる場合じゃないでしょ。どっちも、どの仕事も、一生懸命やるしかないんじゃないですか?」

私が占って欲しかったのは、職業としてのダイバーを含めて、いくつか他にもやってみたい仕事があって、どれを主軸に考えていくか、どれが自分に合ってますかね、という相談だったのですが、占いではなく、ちょっとしたお説教をいただき、これが最後に行った占いになりました。


ということで、
やってみたいことを全部やってみることにしました。

これまでやってきた仕事も好きだし、新たな発展もさせたい
ダイビングだって、趣味で終わらせずに、仕事にしていきたい 

都会暮らしもいいし(以前より価値は感じないけど)
田舎暮らしもやってみたい

もうどちらかを選ぶんじゃなく、どっちも選ぶことにしました。

ということで、在宅勤務・リモートワークが当たり前になってきた生活スタイルと、趣味ではじめたダイビングをプロとして取り組みたい欲求がきっかけとなり、それを素直にそのまま目指すと、二拠点生活という選択になりました。

続いて、二拠点生活を始めるにあたって、取り組んだ準備について書きます。家族の話もまだしてないので、準備編で付け足します。





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