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霊界の可能性:交錯する宜保愛子とスピノザ哲学

宜保愛子が出ていた昔のテレビ番組を観ていて今こそ結果が分かる予言の数々が一つも外れないので、もはや本物の霊能力者ではなかったのかと感じて良くいわれる守護霊へ願い事をしながら暮らすようになった。

自分でも努力しなければ行けなくてかりに嘘でも先祖を大事にする思いは心の支えになるから良いかも知れないと思う。

どうしようもない貧困生活を強いられているし、願い事が幾つも出て来て本当に情けないかぎりにせよ、何かどれも少しずつ良くなっているようだから嬉しい。

只、時間がかかるとその間に死ぬかも知れないから願い事が叶うとしたらもっと早くやって欲しいので、それも一緒に含めてとにかくもっと早くやってくれるように頼むことも必要だと思う。

本当に二十代前半から地獄から抜け出したことがない。生きていても仕様がない毎日から逃れたことがないんだ。日本がずっと不景気だし、いじめや虐待やハラスメントなどの悲惨な出来事が増え捲っているから僕よりも不幸な人は数え切れないだろう。暮らしの状況が酷いから一人で藻掻き苦しまざるを得ないのは仕様がない。

宜保愛子をスピノザ哲学で捉え返すと霊界みたいなものはありそうだ


僕はスピノザ哲学を愛好するスピノザ主義者だけれども身体が滅んだ後の精神だけの状態はあり得ると考えられる。

定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。
証明 神の中には人間身体の本質を表現する概念ないし観念が必然的に存する(前定理により)。この概念ないし観念は、それゆえ必然的に、人間精神の本質に属するあるものである(第二部定理一三により)。ところが我々は人間精神に対して、人間精神が身体の現実的存在(それは持続によって説明され、時間によって規定されうるものである)を表現する限りにおいてしか持続〜時間によって規定されうるような〜を賦与しない。言いかえれば我々は人間精神に対して(第二部定理八の系により)身体の持続する間だけしか持続を賦与しない。しかしそれにもかかわらず今言ったあるものは神の本質そのものを通してある永遠なる必然性によって考えられるものなのであるから(前定理により)、精神の本質に属するこのあるものは必然的に永遠であるであろう。Q・E・D・

バルーフ・スピノザの『エチカ』の第五部(畠中尚志訳)

スピノザ哲学で理性の中で、直観知/第三種の認識と呼ばれるもので物事を認識した場合、心の目で見るのと等しく、世界が自ずから立ち上がって来るように必然性と確実性を以て本質的に把握されることになる。

神に由来する真実に触れる最高の幸せを味わう、すなわち「神への知的な愛」という無上の喜びを得るわけなんだ。

これは永遠の相(始まりも終わりもない仕方)で物事を捉えるということで、飛んでもない感動を覚える経験でもあるけれども身体が滅んだ後でも永遠のものとして残ると考えられているのが非常に面白い。

スピノザ哲学は宜保愛子の霊界ともいうべき死後の世界か魂の存在を肯定しているように受け取れる


現世で知るには直観知/第三種の認識によって物事を永遠の相で捉える必要があるにせよ、それ自体は神の中に妥当にあるとされるわけで、すなわち「人間身体の本質を表現する概念ないし観念」は誰にとっても真実として存在する。

宜保愛子がいう霊は死んだ人の生前の状態を写し出すように多く含んだものだからスピノザ哲学の身体の本質を表現する精神的な対象と似通っている。

霊は基本的に生前の状態で見られるし、身体の本質を中心に示しているわけではないから全く同じではないけれどもスピノザ哲学が身体なしの世界、精神だけの状態を容認するならば霊界の可能性も否定できないと驚く。

見出しの画像:Woman with outstretched arms by Fuu J / Unsplash

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