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抽象と具象の境界を渡る思考と、両極端を眺めながら中庸な軸を探す観測

3回に分けて、僕が普段意識することの多い思考の流れや観測の捉え方を説明してみようと思います。常にこれらに従っているというわけではなくて、考えたり知覚している時にこのモデルに沿うことがよくあるという感じです。


1つ目は、簡単に言うと抽象化です。

あー、その話ね。って思った方はおそらくその通りです。これからもけっこう、分かっている人にとってはすごく当たり前なことを僕は書くことがあると思います。ですが一般論のまとめではなく個人的な体験として特別なものを書いていくつもりですので、お付き合い頂けたら嬉しいです。

ここでは、抽象化する考え方のコツを読んでいるうちに感じてもらえるように書いてみたいと思います。


僕が高校生の時に、父がTED (Technology Entertainment Design)の面白さを教えてくれました。気が向いた時になんとなくみていた講演の中で、初めて抽象化する思考の素となるモデルに会います。とても有名な講演なのでTEDを知っている方ならみていると思います。サイモン・シネックさんの「優れたリーダーはどうやって行動を促すか」という講演です。

(※18分ある動画です。お時間ある方は見てみてください。アップル製品は何故魅力的か、ライト兄弟はどうやって成功したのか、キング牧師のスピーチは何故心に響くのかといった例も面白いです。)

講演の中で『ゴールデン・サークル』というモデルが登場する。同心円状の3つの輪の形で、中心から[Why],[How],[What]の領域を表しているとてもシンプルなものだ。

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簡単に言うならば、Whatはモノやコト、目に見えるものや触れるもの、つまり観測されるもの。Whyは感情や動機や意志や意義、何かしらの手段Howを使わないと観測されないWhatに内在するもの。

Apple製品で言うならば、iPhoneやアプリケーションをモノ(What)とすると、これらを作る手段(How)はエンジニアリングであり、込められた意志(Why)は「人の生活を便利にしたい」や「人の道具をデザインして日常を新鮮にしたい」といったところだろうか。

「人が宇宙の星を観る」というイベントをWhatとすると、僕らが目や天体望遠鏡(How)を通して綺麗な星の光を観たかったり宇宙に行ってみたいという想いがWhyかもしれない。

このようにイベントをWhatにすると天体望遠鏡はHowとして考えられるが、天体望遠鏡をWhatとしてこれを作るためのモノづくりのHowや人の協力の仕方のHowを見出す思考もあるだろう。どのフレームでWhatを捉えるかで考える構造は変わってくるが、思考はいつもベクトルを持っていることに気付くと話は簡単だ。モノ・コトを観測したり経験したときにWhyの方向に思考することが抽象化で、感情や意義が存在したときにそれをモノ・コトにするためにHowの方向に思考することが具象化だ。


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思考のベクトルをなんとなく意識するようになっても、高校生の僕はそこまで思慮深い人間ではありませんでした。いや今も思慮深いかと問われるとそんなことはない気もするのですが、高校生の頃は間違いなく今より感覚的になんとなくで生きていた気がします。好きな音楽をやるために吹奏楽部に入るも体力管理が上手くいかなくてすぐやめて、1人でピアノ弾いて勉強する日々もなんとなくつまらなくて、飛び跳ねることが好きだったから(?)友達の誘いもあってなんとなく陸上部に入って・・・高校を卒業して以来トロンボーンを吹くことはないしスパイクを履くこともないです。まあでも、みんなそんなもんでしょうか??

思考の方向性に気付いてはいたものの、そんなにモノを考えていなかったゆとり高校生でしたが、大学進学を意識しだした頃から思考が変わっていきました。

ピアノを弾くことが大好きだけれど、ピアニストになるのはとてもじゃないけど厳しそうだなとか。体を動かすことも好きだけれど、特に突出した身体能力があるわけじゃないしそもそもスポーツ系の職種には興味ないしなとか。数学と物理も好きだけれど、自分より勉強ができる友達はたくさんいるし、勉強を頑張るくらいなら自分はピアノに向かってた方がいいんじゃないかなとか。でもピアニストになるのはやっぱり無理すぎるから、とりあえず音楽に関わる何かになろうかなとか。とかとか。ぐるぐるぐる。

高校生の自分の考えを鮮明に覚えているわけではないのですが、おそらくこんな感じでした。めちゃくちゃ青くて大草原ですね。隣の芝生が青いのとか気にならないくらい真っ青(?)。

そうやってぐるぐるしているうちに、勉強にも全く身が入らないうちに、なんとなくピアノを弾いているうちに、気付いたら現役の受験期は終わってました。

その後僕はずーーーっと自問する時間を過ごすのですが、それはまさにゴールデン・サークルの中心に向かって登山をするような感覚でした。そんな中で会ったのが「宇宙」でした。

「自分はなぜ生きているのか」そんな個人的には重大なWhyと向き合っていると、同時に浮かび上がってきたWhyがありました。「なぜ生物がいるのか」「なぜ朝と夜が繰り返されるのか」「なぜ宇宙があるのか・・・」自問を繰り返すうちに、自分と全部の見方を知り始めたようでした。今まで無かった自分の世界観のようなものと出会ったようでした。山頂から景色を眺めた感覚とも似ていました。

山頂には素晴らしい景色がありましたが、他は何もありません。人も全然いません。てっぺんはそれこそ独りでした。下山して、人のいるところに戻って、ゴールデン・サークルのWhatの輪まで行かないと何もカタチになりません。登った後でとても疲れていましたが、山頂の景色は目に焼き付いていました。

登山風景


それからもゴールデン・サークルの登山を繰り返しているうちに、身についた思考があります。ゴールデン・サークルをより高くて大きい山にして登る方法、スケールすることです。

ゴールデン・サークルに中心と外側を結ぶベクトルを1つ見つけたら、その逆側のベクトルを考えてみたり、その内角を定めてみたベクトルを想像することです。

自分の経験や観測したものからWhatは見つけることができますが、それは1つの例でしかないかもしれません。ゴールデン・サークルのそれぞれの領域の大きさが表す通り、Whatはたくさんあり、複数のWhatが1つのWhyに繋がっていることもあります。メーカーがシリーズで製品を出すように。

1つのベクトルから他のベクトルを想像することで、自分が見出したたくさんのベクトルを合わせてゴールデン・サークルを形成するイメージです。

これは俯瞰です。自分の目の前にある光景をフラットに直視しつつ、その派生からどこまで幻想するか。この思考についてはこの記事がいい解説になると思います。



自問する中で宇宙の存在まで考えを巡らせることは、自分のゴールデン・サークルをちゃんとした円にするために必要な思考でした。

自分の中にある小さくて狭い世界と、誰にも分からないほど広い宇宙は、意識し始めた時から両極端でした。両天秤と言った方が正確かもしれません。

星空を眺めることは、僕にとっては自分と向き合うことと同じになりました。眺めながら、どうしようもなく自分を責めてしまったり、なんだか期待に溢れたりを繰り返しながら、自分の軸を、円の中心を確かめようとしていました。

その時の自分に合いすぎていて思い出深い曲があります。

正気の世界が来る
月も消えた夜
目を開けて

明日には会える そう信じてる あなたに あなたに
変わってみせよう 孤独を食べて 開拓者に 開拓者に

徐々にざわめき出す
知らないままでいることはできない

明日には会える そう信じてる あなたに あなたに
止まっていろと 誰かが叫ぶ 真ん中に 真ん中に

それでも僕は 逆らっていける 新しい バイオロジー
変わってみせよう 孤独を食べて 開拓者に 開拓者に

ーーー スピッツ『新月』より 作詞:草野正宗

自問することが少なくなってからも、抽象と具象を行ったり来たりしながら、いろんなベクトルを想像しながら軸を探す思考はよく捗りました。

同じ意思で行動しても良いことと悪いことに分かれるとしたらそれはどう違うのだろう。
絶望的に観えるものから希望はどう見出せるだろう。
自分が感じている不幸や不安は誰かにとっては幸せで安心することかもしれない。

考えることばかりしていると、チャップリンのこの言葉を意識することもありました。

We think too much and feel too little.

『独裁者』より チャーリー・チャップリン

しかし僕の場合は、考えることなんて全部放棄して感じるままに生きていけばいっかとふっきれようとした時には、もう遅すぎました。自分の一挙一動に、相手の言葉一つ一つに、Whatを記録しWhyを導こうとする思考が癖になっていました。でも、このゴールデン・サークルのモデルがあまりにも汎用的すぎることにも気付きました。

それでも4年前くらいから感覚的に生きていくってことができるようになるのですが、今でも僕は解析的に思考し構造的に理解しようとすることが多いです。でもそれは人からみるとそうであって、自分からすると周りの人と変わらない感覚かもしれないと思っています。

僕は自分の中にあるゴールデン・サークルを観すぎてしまいましたが、この構造は本当にあらゆるところにあります。サイモン・シネックは人の脳の構造と同じと言っていました。僕はこれを観た時最初は恒星を想いました。もちろん原子の構造も。カタチにとらわれずに構造を観測するようになると、アート作品にも、ビジネスにも、エンジニアリングにも、文化にも、ピアノの音にも、人との会話にも。

「孤独な青年が話しかけると二人は友達になった」

「誰が作ったのか分からない料理は美味しかった」

「目が覚めた数学者の頭の中には答えがあった」

「今日も一緒に暮らす人の帰りを出迎えた」

「大切な人の死を悲しんだ」

「晴れた空を見上げていたらなんだか気分が良くなった」

「街で同じ靴を履いている人を見かけた」

「明日なんて無いかもしれないけど、今日もお気に入りの音楽を聞いて外に出た」


きっとゴールデン・サークルなんて考えなくても、僕らは真ん中を知っている。


見出し画像 ー 『太陽』 エドワルド・ムンク

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